短編小説「顎を実感していた」
あほボケたこカス!
ぼく、三十八歳! LANケーブルの卸売の零細企業の生産管理部で……まあ、つまり、毎日クッソつまらんってこと!
今、安アパートに帰って来たわ! 午後十時! ああクソ!
ぼく、もう、全てが嫌なの! ああ、小説で賞を取って、会社を辞めたいなあ。
ぼく、書くわ! 安売りの煮干しを齧って……っと、さて、書こうっと!
そうだなあ……自らの実体験を生かして小説にするとかいう〝史上最低の行為〟は止して、創作しよう! 自動販売機の会社で働いている男が、恋に堕ちる小説にしよう!
***
「まったく、毎年毎年よくやるぜ。」
夜の公民館の一角。呟いたのは不破 孝(ふわ たかし)、二十八歳。葬儀屋の平社員。
この町内会では毎年オリジナルハンドベル朗読劇を青年会の誰か数名がやることになっているのだ。
「あら、子どもの頃から孝は結構楽しみにしてたでしょ。」
風鈴のような声でそう言ったのは、井上 紅葉(いのうえ もみじ)、三十一歳。塾の新規営業部で、強引な営業活動を強いられており、精神がもうそろそろ、〝終わり〟そうだ。
「……。」
黙っているのは越知野 薫(おちの かおり)、三十四歳。保険会社を鬱病になって辞め、今は競輪場でアルバイトをしている。女同士ではあるが、紅葉に告白されたことがある。
「まあまあ。ここは一つ、ドラマティックな冒険譚をやりましょうや!」
そう意気込んでいるのは、この四人の中では最も若い男、若山 御津斯波(わかやま みつしば)、二十一歳。長身だ。自動販売機の会社の下っ端として、残業三昧の毎日だが、今日は本当に珍しく三十分の残業だけで退勤することが出来た。
オリジナルハンドベル朗読劇は、今年は薫が書くことになっている。薫は小学六年生の時、劇の脚本を書いたことがある、実績のある人物である。
尤も、彼女が嘗て書いた「キムチ姫の抜刀」は、放送禁止用語のオンパレードで、PTAが全員発狂してしまったわけだが……。
「……気合いを入れて書いて来た。筋書きを説明するから、レジュメを見てくれ。」
そう言って越知野は、凛とした、併し、何処か艶めかしい声を放った。
「書いたのは、ダイカスト会社の経理畑の女や……その他の女達が、ああだこうだ右往左往するものでな……。」
***
辞めた郵便局の愚痴と、今やっているコンビニエンスストアのアルバイトでの悪戦苦闘をひとしきり述べたあと、何やら難しい名前の、クリーム付きカフェオレみたいなやつを、九区 計子(くく けいこ)は啜った。
「まあまあ。仕事だけが人生じゃないんだし。口に糊する為の時間は心の電源をOFFにするしかないよ。」
そう声を掛けたのは梨田 由来(なしだ ゆき)。私のルームメイトだ。ルームシェアをしている。複数人いる時は姉御肌を演じがちだが、普段は実はおとなしめの子で、かなり良い子だ。
私は由来の意見に賛成した。
「ソウダゾ。シュミトカノコトヲカンガエテ、アレダ、ソノ、ゲンジツトウヒヲメインニゲンジツヲイキルンダ。」
「そうだねンオギ。ありがとう。」
ミノ=ンオギというのが、私の今の本名だ。
「そういえば千文が面白い趣味してるよねえ?」
計子が、機嫌が直ったのか、いたずらっぽく言う。
喫茶店で出されたブラックコーヒーに日本酒を混ぜながら、伊賀原 千文(いがはら ちふみ)はこう答えた。
「ええええ、あたしゃどうせ陰気ですよ。あたしゃね、黒歴史製造機ですよ。」
「ちょっとー、教えてよ。何なの?」
と由来がブラッドオレンジジュースを啜る。
千文は手元の酒精珈琲を呷り、囁く。
「……本当に、人に言えたような立派な趣味じゃないよ。アラ☆ウィに動画を投稿しているだけ。」
「エロイヤツカ?」
「ンオギ、あんたねェ……。まあ、日本で言うところの、前期自然主義文学然とした、クッソつまらない実験的創作。」
「クッソツマランノニジッケンテキナノカ?」
「実験が常に革新的とは限らないさ。寧ろ、地味こそ実験の本質さ。ゾライズムだよゾライズム。写生の形。ま、環境を創作して……リアリティを求めた創作なの。監視カメラで撮ったような。ドラマ性とかそっちのけで、リアリティに全振りした創作よ。動画だから、白黒の簡単な絵の……まあ……動画というよりかは紙芝居、みたいな?」
「へえ。」
「へえ、って、アンタは知ってたんじゃなかったの?」
と、由来が計子にツッコむ。
千文は紙ナプキンが揺れるのを見ながら話を続ける。
「そうだねえ、今創ってるのは、本当につまらない話なんだけど、福川っていう三十八歳の、醜男(ぶおとこ)の話。」
「チフミハルッキズムガキライダカラネ。」
「よく分かっているじゃないか、ンオギ。」
褒められちゃった。嬉しい。
「そうなの。それでね、ゾライズムを踏襲するのみならず、外見至上主義に対抗すべく醜男を主人公に据えたんだけど、これがまたつまんないの。LANケーブルの会社の生産や製造関係の仕事をしている設定なんだけど……あ、といっても製品は社内で作るんじゃなくて、仕入れるんだけどね……ま、兎に角その福川、残業を終えて安アパートに帰ってきて煮干しを齧って……本当に生きている意味が、言っちゃあ悪いけどまあ、乏しいような、そんな男。一応、ノンフィクション小説が嫌いな、作家志望という設定もあるんだけど……。」
***
あほボケたこカス!
ぼく、三十八歳! LANケーブルの卸売の零細企業の生産管理部で……まあ、つまり、毎日クッソつまらんってこと!
今、安アパートに帰って来たわ! 午後十時! ああクソ!
ぼく、もう、全てが嫌なの! ああ、小説で賞を取って、会社を辞めたいなあ。
ぼく、書くわ! 安売りの煮干しを齧って……っと、さて、書こうっと!
そうだなあ……自らの実体験を生かして小説にするとかいう〝史上最低の行為〟は止して、創作しよう! 自動販売機の会社で働いている男が、恋に堕ちる小説にしよう!
***
「薫さん、話の途中で済まない。俺は孝を好んでいるんだ。だから、今から接吻しようと思う。」
「……は?」
どこからか薔薇を取り出し、孝の胸ポケットに挿したかと思うと、自らの指の血も気にせずに、御津斯波は孝の唇を奪おうとした。
「う、うわああああっ。」
孝は飛び退こうとしたが、そもそも椅子に座っていたわけで。椅子ごとひっくり返ってしまった。
「……え? ……え?」
薫は混乱している。薫は、御津斯波が好きなのだ。好きだった、という表現の方が適切になる時が、もしかしたらそう遠くない将来に、存在するのかもしれないが。
紅葉はというと、御津斯波という仲の良い他者の錯乱に、内心ほくそ笑んでいた。そりゃあそうだ。自分の評価が相対的に跳ね上がるのを、面白く思わない者はいない。紅葉は、驚愕に打ち震える薫の小鼻を見て、性的にかなり高まった。
いけないいけない、急いては事を仕損じる。
紅葉は、純朴な、眠気覚まし専用のような素っ気無いガムを取り出し、噛んだ。急がば廻れ。急がば廻れ。強かに強かに、ガムを噛み締める。顎。顎。顎。顎の力に全神経を集中させた。顎を実感していた。
〈了〉
非おむろ 2023/02/08