言葉にあわらすことは内面の嵐を見ること
なんていえばいいのか、何と書けばいいのか、何を表現すれば良いのか、キャパの狭い自分の心は頭は嵐の中のように色んなことが駆け巡っている。
言葉は難しい。
言葉は人に物事を伝える手段として正確なようで、その実、受け取り手のバックグラウンドに依るものが多く、正確性とは程遠いものであると思う。
ヒトが言葉を使うことも、犬が吠えることも極端に言えば同じ。
発言手としては吠える行為とは表現の細部に開きがあると言えるのだが、受け取り手にとっては犬が吠えるのと同じ情報量でしか受け取れない場合もままある。
発言手が正確な語彙で伝えたとしても、言葉に怒りが多分に乗っていると、受け取り手によっては「怒られてる…」としか感じられないことがあるだろう。
言葉は難しい。
特に日本語は(外国語に詳しいわけじゃないが)話し手に優しい言語だと思う。丸谷才一のウナギ文の大研究の『鰻を注文する際の「僕は鰻だ」という文』が顕著で、鰻屋の注文でこの一文を聞いて、「この人はうなぎ人間なんだ!?」と店員さんが驚くことはない。
その一方、受け手にとっては言葉にしていない部分を含め、どんな文脈で何の話をされているのかをきちんと受け取るよう汲み取る必要がある。
察するってやつはこういうところから生まれたのがしれない。
言葉は難しい。
自分にとって言葉を発する作業は、風で旋回するくじ引きを引くようなもの。言葉くじ引きというべきか、言葉を発する時は、適当な言葉を選び発する事でしかなく、内面の嵐は理論立てをする隙を与えない。
スピード感を求められる場面ではこの言葉くじ引きは特に顕著に現れる。
正確性を欠きつつ受け取り手に委ねることを書くかもしれない言葉だが、だからこそ残せるものがある気がする。