成人式の憂鬱
成人式、卒業式、結婚式。◯◯式に出席できるということは「そこまでの人生が最低限、人並みにこなせていたか」の指標になっている気がしてならない。大学の卒業式には無事晴れ着で出席し、大学生活が肯定された気がした。次は結婚式。これもやる気がない。また一生、自己否定を続けるのだろうか。
私が成人式に行けなかったのは、成人式に行くことを自分の意思で拒否した姉との“平等”を保つため。私は禁止されたわけではなかったが、何事も悪い事までも姉に倣わなければいけない圧力はすごかった。失敗とわかっている事を繰り返すことも厭わない。平等の呪いは恐ろしかった。
毎年、テレビに映る新成人の純白のファーが私の黒ずんだ心に追い討ちを掛けてくる。私は家の事情で成人式には行けなかった。私の生き方はなにか悪かったのだろうか。いろいろな悲しい悔しい思いが溢れ出す。暴れ出したいほどだ。毎年この時期にこんなにもつらい思いをしなければならないのは地獄だ。
成人式に行けなかったせいで、その数年後の同窓会で質問攻めにあった。引っ越したことになっていたり、海外留学中だったことになっていたり、都合よくポジティブに推測されていた。だからそれからは心の中ではニースに留学中だった、ということにしてこの時期の精神を保っている。
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