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「悲哀の月」 第63話

 看護師が里奈の異変に気付いたのは、彼女の意識が混濁し始めてから十分後のことだった。
「大変です。先生。里奈さんの容体が急変しました」
 望はすぐに来生に急を知らせた。
「わかった」
 医師は立ち上がるとすぐに防護服やフェイスシールドや手袋などの装備をすると病棟へ向かった。丸田も続く。
「大丈夫ですか。里奈さん」
 部屋に入ると沙耶が必死に呼び掛けていたが、苦しむばかりだ。返事をしようと目を向けてくるが、返事は出来ずにいる。
「大丈夫ですか。里奈さん」
 そこで来生はベッドに近寄ると呼び掛けてみた。
 だが、沙耶の時と同じだ。咳き込み苦しそうにしている。
「すいません。レントゲンを撮らせていただきますね。少し我慢してください。すぐに終わりますからね」
 来生はすぐに指示を出した。昨日もレントゲンを撮影していたが、大きな変化は見られなかった。従って、ここまで苦しむような状態ではないはずだ。ただし、一日で症状が悪化してしまうのは、コロナの特徴でもある。
「はい、ありがとうございました。撮影は終わりましたからね。苦しいと思いますけど、もう少し我慢してくださいね」
 撮影を終えた来生は声を掛けると、一度部屋から出た。そして別室で撮影したばかりのレントゲンを確認する。
 すると、肺の炎症は広がっていた。七割近くが炎症を起こしていたのである。一日で一気に広がってしまった。
「一日でこんなに急変してしまったのか。昨日は落ち着いていたのに」
 レントゲンを見るなり来生は驚きを見せた。だが、いつまでもそうしている時間はない。
「集中治療室は空いているか」
 すぐさまそばにいた看護師に聞いた。
「はい、一床だけ空いています」
 調べると看護師は答えた。
「そうか。それなら里奈さんを集中治療室へ移そう」
「わかりました」
 頷くと看護師はすぐに里奈の移動を始めた。隔離病棟のベッドごと部屋から出すと、集中治療室へと移した。ベッドから移す時には、七人がかりで持ち上げた。
 ただ、それだけでも里奈の体には負担が掛かったようだ。肩を上下させ、荒い呼吸をしている。まるで激しい運動をした後のようだ。
「大丈夫ですか。集中治療室に来ましたからね」
 来生は状況を説明した。
 だが、反応はない。
 空気を求めるように手を伸ばしている。
「まずいな。これは。人工呼吸器を付けた方がいいだろう。呼吸も厳しいみたいだから」
 その様子を見、来生は決断した。
「わかりました」
 看護師はすぐに準備に取り掛かる。
「里奈さん。人工呼吸器を付けさせていただきますね。少し眠ることになりますけど頑張りましょうね。決してあきらめずに」
 来生はあくまで優しく声を掛けた。
 聞こえているのだろう。里奈は小さく頷いた。コロナ病棟で勤務経験があるだけに、現状はわかっているのかもしれない。
 そう思い、来生は人工呼吸器を取り付け始めた。
 看護師のサポートもあり、装着は無事に終わった。里奈の胸は、上下に間隔を置いて動いている。顔からも苦しみは取れた。無事に肺に酸素を送り込んでいるようだ。
「とりあえず、これで様子を見よう」
 人工呼吸器の挿入がうまくいったことを確認すると、来生はすぐに部屋から出て行った。


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