ドラマトゥルギーって…何?②
私は子供の頃、身の回りの人々は、みんな役者で、演技をしているのではないか?という疑い(妄想)を抱くことが、まれにあった。
それは、あくまでもまれにだから…
病的ではない…、とは思うが…
極端に言えば、こんな世界だ。
The Truman Show (1998) Trailer
ザトゥルーマンショー
しかし、ドラマトゥルギー(ドラマツルギー)と呼ぶ社会学的観察理論が確立していることを考えれば、子供のころの私のそれは、全くの妄想ではなかったんだ、と言えるかもしれない…
でなければ、社会学者アーヴィング・ゴッフマンも私も、もろとも病気🏥だということだろう…😁💦
人は、知らず知らずのうちに、時と場所に応じて、役を演じている…というのだ。
仮想現実マトリックスも
ドラマトゥルギー世界なのか…?
ドラマトゥルギー(ドラマツルギー)…
よくご存知の方には、説明不要だと思うが、私はよく知らない。
しかし、なぜか面白そうな概念ので、拙い解釈ながら、もう少し解明してみたい。
ゴッフマンは、ドラマトゥルギーの配役や舞台を次のように分類した。
ー 配 役 ー
オーディエンス
パフォーマー
ー 舞 台 ー
フロントステージ(表舞台)
バックステージ(裏舞台)
アウトサイド( 局域外)
パフォーマーは演者、オーディエンスは観客、と訳せるだろうか?
(ここは独自解釈で、適切かどうかわからないが…)
ただし、オーディエンスでさえも舞台上の一員であるようだ。
役 割
さて、パフォーマーは『役割』と呼ばれるミッションを担っている。
ここが重要らしいのだが、この〝役割〟とは〝指示〟とか〝命令〟のように明示的に申し渡されたものとは限らない。
むしろ、もっとあいまいな〝○○らしさ〟みたいな、世間一般で共有されているイメージのようなものらしい…
男らしさ、若者らしさ、教師らしさ、観光海女らしさ、みたいな感じだろうか?
役割期待 と 役割距離
またまたしつこく『あまちゃん』を事例に…
『あまちゃん』21、22回で、ウニが獲れないアキのために、あんべちゃんが〝落武者〟となって、水中でこっそりアキにウニを渡す場面だ。
ここでは、パフォーマーは天野アキで、オーディエンスは観光客、と仮定しよう。
前述の舞台の定義は、wikipedia『ドラマツルギー』を参考にしたが、二番目が〝舞台裏〟ではなく〝裏舞台〟となっているところが気になる…
これはパフォーマーたちは、オーディエンスがいない裏側でもパフォーマンスを演じている、ということらしい。
つまり観光客からは見えない水中での〝からくり〟や、事前に漁業組合で夏婆っぱから「海女はサービス業だ。」と教えられた場面は〝裏舞台〟であり、実はそこでもパフォーマンスが演じられているというのだ。
さて、いざ水中の裏舞台で「奥の手」を使ったものの、表舞台でアキは夏婆っぱからの教えをひっくり返してしまう…
ベテラン海女さんたちにしてみれば…
「このあま~ちゃん、よくもバラしやがって!」
となるが、北三陸の海女さん達は、みんな心やさしき人々ばかりだ。
パフォーマーであるアキの〝役割〟とは、たとえインチキでも、遠路はるばる観に来てくれたファンのために、「ウニ獲ったど~!」というショーを演じることだった。
この〝周囲から期待されたパフォーマンス〟のことを「役割期待」というらしい。
はたしてアキは、この「役割期待」を裏切ったのだ。
「 人の行動は、時間・場所およびオーディエンスに依存している 」
(wikipedia「ドラマツルギー」より)
と言うが、アキの言動は、オーディエンスに全く依存していないどころか、期待に応えていないようだ…
たしかに、いくらパフォーマーと言えども機械ではない。人間は、時には機嫌を損ねて「役割」をブン投げるかもしれない。
この「役割期待」から背くことは、「役割距離」と呼ばれるらしい。
しかし、アキは気まぐれな不機嫌で、役割に背いたわけではない。
「ウニは銭だと思え!」と夏は言うが、アキにとって、海は自分が新しく生まれ変わった神聖な場所だ。
アキ(パフォーマー)は、周囲(オーディエンス)からどう思われようと、自分の信念を通したのだ。
「観光海女はサービス業だ!」という夏婆っぱにしろ、あんべちゃんも、本当はアキにそんなインチキをさせたくなかったに違いないが…
春子は、アキを気弱な子だと言うが、芯は非常に強い女の子だ。
そこは、母親春子ゆずりなのではないか?
不器用さ故に、世渡り下手も受け継いでいるが…
ドラマや映画などの面白さとは、日常のドラマトゥルギー的な予定調和を、はぐらかす『役割距離』的なところにもあるのかもしれない。
いろいろ調べていくうちに、ドラマトゥルギーや『役割○○』が、国家資格の『社会福祉士』などの受験問題にも登場していることがわかった。
様々な社会システムに、ドラマトゥルギーの理論が応用されているのかもしれない。
シロウトが期待するまでもないが「いじめ」とか「過労」などの学校や労働環境の問題解決にも、ドラマトゥルギーは応用できるのだろうか?
ドラマトゥルギーは、『悲劇の誕生』のニーチェや、『プロ倫』のM・ウェーバーなどの情念的で〝湿気〟のある哲学と異なり、ドライでビジネスライクなイメージがあるのは、やはりプラグマティズムの国、アメリカの社会学だからだろうか…
https://youtu.be/ingBmMf_NLM
ドラマツルギー
よい曲だけど、速すぎて…高音域も
とても歌えそうにない🎤🙉💦