なるべく嘘をつかないように
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10月25日。13時12分。パブロ・ピカソの誕生日。久しぶりにまとまって眠れた。それはメラトニンを飲んだからか。0時に寝て(寝る間際に時間を見た)、起床は8時半過ぎだった。たいへんありがたい。ありがたいが副作用的に起きてからも眠気というものが巣宮っている感じ。寝たいのではなく眠いのではなく、眠気というものが独立して有る感覚。今日は出かけ用事がないからいいが、人と会う時にこれだとしんどいだろうなと思う。このまま眠気が夜まで持続し、そのまままた一気に眠れたらいいとも思うが、一錠で丸一日眠気があるのだとしたらそれってどれほどに体に負荷がかかっているのだろうか。
さて、来週で11月になるわけだが、mさんにお声がけいただいたLGBTQの展示イベントに「参加したい」と返信をしたがそれに対してmさんから音沙汰がない。参加が受理されたのか否か。ただ一通確認のメッセージを送ればいいだけのことなのだけどその一通が億劫。メールでもSNSの投稿でも発信は、外との繋がりを作る。扉を開くこととなる。それが億劫なのがここのところの私。書きかけては丸めるレターのごとく、投稿しようと写真を選び言葉を添えてみるも、ボタンを押す最後の一歩が出ない。なにか面倒臭いと思ってしまう。いや違う。自分に対して押し切る感じがあるのである。大きく言えば「嘘をつく」みたいなことに近い。
そう、昨日の午後、素晴らしい気づきを得たのを思い出したので記す。これまで自分は「自由でいたい」とか「自由こそ」みたいな自覚があり、言葉にして放ってきたが、昨日、目下の自身の本心みたいなものが別のものと置き換わった。「自由」ということももちろん欲するが、より正確に言えば、この人生において自分は「自分に嘘を強いたくない」ということを思っている。好きなことだけしたいとか、嫌な人と会いたくないとかそれらは、やや無理があるように思っていて。不可能ではないと思うが、「好きなことだけ」とか「嫌な人には断じて」みたいなことを据えると、それはなかなかの制限を生む。圧の強いマイルールとなる。そうしたことをより詳細、繊細、あるいは負荷の少ない形にしていくと、「嘘をなるべくつきたくない」となった。「なるべく」というのがいいじゃないか。絶対ではない。絶対はきつい。
「嘘をつかないように生きる」こととは、好きなことをすることでもあり、嫌な人と接触を最小限にすることにも通じる。でも、素晴らしいのは、嫌だけどこの場合は仕方がない、ということが「嘘をつかない」においてはokな点。自身の本心に気がついた上で、「しかたがない」はありと言うこと。妥協もダメではない。そのように設定すれば、安心して自分の本音を自分に対して開帳することができる。
言葉になるってありがたい。「なるべく自分に嘘をつかないように」とすると、人生の方針? はある意味ではその場その場で良いとなる。都度都度自分に聞いたらいいだけ。そしてその時にその時の答えを出す。