山際淳司が書く「スポーツ・ノンフィクション」のおもしろさ
『山際淳司 スポーツ・ノンフィクション傑作集成』(1995年、文藝春秋)を読んだ。爆裂にぶ厚い。800ページあって、あまつさえ二段組である(あまつさえの使い方あってますか?)。角で殴れば物理的に人を殺せそうだし、本嫌いの子供に読ませたら精神的に殺せるような厚みだ。それを2週間くらいかけてちょびちょび読み進めて、つい先日読破した。こういうボリューミーな本を最後まで読み終えたことは何度もあるが(そして読み終えられなかったことも何度もある)、読み終えた瞬間、胸の内の大半を占めるのは達成感だ。本の内容うんぬんよりも、こんなにも高い山を征服したのだ、ということへの喜びの方が先に来てしまう。この本を読み終えたときもその達成感はあったけれど、それ以上に「もう終わってしまった」という寂しさのような想いがあった。読後そういう感情が湧き上がる本は、本人にとって何か特別な意味のあるものなのかもしれない。
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山際淳司について、前もってどれくらい説明すべきなのかは分からない。スポーツのノンフィクション作家といえばこの人、というくらいの、その世界では伝説的な人物だからだ。とはいえ山際が活躍したのは1980~90年代にかけて、そして1995年には病気で亡くなってしまっているため、僕が生まれたとき、彼はすでにこの世を去っていたらしい。だから山際淳司について僕がわかることはあくまで本やネットで調べた間接的な情報と、彼が遺した作品を読んで想像したことくらいなのだが。ただひとつ確かなことは、彼の作品は、題材も文章そのものも過去のものであるにもかかわらず、その切れ味をずっとキープしているのだということだ。
山際淳司の文章は、ある選手やゲームについて、徹底的な取材によりさまざまな人物・時間軸からの視点を得たうえで、自らの視点で冷静に対象を分析し、考察を展開するのを特徴としている。1980年にNumberに寄稿し話題を呼んだデビュー作の短編ノンフィクション『江夏の21球』にはことさらその特徴が表れている。『江夏の21球』は1979年に行われた広島カープ対近鉄バファローズの日本シリーズ第7戦、カープの江夏豊投手の9回に投げた21球について、本人含め様々な選手、監督の視点から考察している作品だからだ。「近鉄バファローズの石渡茂選手は、今でもまだそんなはずがないと思っている」という、江夏に相対した近鉄バファローズの選手の視点から、この作品は始まっている。
彼の文章の評判についていろいろ調べてみると、よく「乾いた」という形容を目にする。僕は読んだことがないのでよく分からないが、山際以前のスポーツ・ノンフィクションは精神論を多分に含んだ前のめりな文章が多かったらしく、それと比べれば彼のクールで抑制のきいた文章は「乾いて」いるのかもしれない。でも僕はあくまで山際淳司の文章は「相対的に」乾いているだけだと考えている。山際の文章の、事実の描写は冷徹かもしれないけれど、そこから紡がれる考察は彼の血肉を通過して生まれたものだ。ときにはっとするような急所を突く文章があり、選手への憧憬や羨望が滲む熱のこもった文章があり、思わずニヤリとしてしまうような小粋なユーモアを交えた文章がある。たとえるなら、ナイフのような文章だと思う。切れ味鋭く、ひやりとしているけれど、乾いてはいない。刃物を描写するとき「濡れている」という形容があるけれど、山際淳司の文章にもある種の潤沢さのようなものを感じられる。
この傑作集成は、80篇の短編から成るものだ。長くても20ページ、短いと2ページくらいなので、息継ぎしながら読み進めることができるけど、それでもかなり難航した読書体験であった。その理由のひとつに、語られるスポーツがあまりにも多すぎるが挙げられる。野球にサッカー、テニス、バスケットボールに始まり、相撲、ボクシング、陸上、ゴルフ、競馬、登山、ボート、スカイダイビング、トライアスロン、グライダーなど……。僕は決してスポーツが嫌いな人間ではないが、それでも多くのスポーツに対して表面上の理解しか出来ていない。少し潜ればそこは未知の世界である。一般人がまともにルールを説明できるスポーツが、いったいいくつあるというのだろう? 知らないものを読み解こうとするときには、気力・体力ともに著しく消費する。野球以外を題材とする作品を読むときは、かなり頭を働かせながら読んだ。そして同時に、これほどまでに多種多様なスポーツに精通し、取材の為なら日本全国はおろか海外にまで足を運んで、文章を書き、合間の時間には自分自身もスポーツを嗜んだりする、山際淳司のとてつもないバイタリティに戦慄する。自分と同じ1日24時間を生きている人間とは、到底思えない。
また、ここまで多種多様なスポーツが存在するとなると、スポーツという言葉でひとくくりにしていいものか、とも感じてしまう。野球好き、サッカー好きではなく、スポーツが好きということは、あらゆるスポーツに共通する何かに魅力を感じているということであり、その共通項をあらかじめ明らかにしておきたい。この本には収録されていなかったが、とある棒高跳び選手について語った彼の作品『ポール・ヴォルター』にて、以下のような文章がある。
「限りない速さを求める人間がいる。限りない重量を、重力に逆らって持ちあげようと望む人間がいる。そして、限りない高さをきわめようとする人間がいる」
「共通項は次のようにいうことができるだろう――そのいずれもが限界を走り抜けようとしている、と」
そして、このように続いている。
「ぼく自身のことを、ここで語っておけば、ぼくは一度たりともその種の限界に遭遇したことのない、いわば、日常生活者である。肉体の限界に挑戦したいと夢見ながら、目がさめるとぼくは、哀しいかないつも観客席の立場にいるわけだった」
少なくとも山際淳司にとっては、「何らかの限界に挑戦する」という要素こそが、スポーツの共通項であり、彼をそこまで駆り立てるものだったのではないか、と僕は考えている。彼は限界の挑戦者に憧れている。しかし、限界の挑戦者になることはできない。だからスポーツをあらゆる視点から見つめ、分析することで、限界の挑戦者のことを理解し、言葉にしようとしている。そしてスポーツについて考察することを通して、ときに山際は哲学的な、本質的な何かに気づく。その気づきの部分を読むのが、僕が山際淳司の作品を読んでいて、1番面白いと思うところだ。楽しいことをやるのに深い理由はないけれど、辛いこと、苦しいことにそれでも挑むとき、そこに物事のきわめて純粋な、本質的な何かが潜んでいるような気がする。何らかの限界に挑戦するスポーツは、そんな哲学の宝庫であり、それはスポーツをやっていない人の人生にも適用しうる。でもスポーツ選手の本来の目的は哲学を見つけることではないし、見つけてもそれを言語化するか(あるいは、できるか)はまた別の話。スポーツを観ている人も、多くはそれを娯楽としてしか捉えていない。だからスポーツを介して物事の本質に気づくことができるのはスポーツ・ライターか、スポーツ・ライターの書いた文章を読む人なんじゃないかな、と僕は思っている。
前置き(?)が長くなってしまったけれど、『山際淳司 スポーツ・ノンフィクション傑作集成』の中で、特に印象に残った作品をいくつか紹介したいと思います。
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『たった一人のオリンピック』
昭和50年のはじめに、突然「オリンピックに出て金メダルをとろう」と思いついた津田真男という青年の話。彼は本気で自分がオリンピックで金メダルをとれそうな競技を見つけ出し、車まで売って道具を買う金を捻出し、我流のやり方でひたすら練習を続け、数年で日本トップクラスの選手にまで上り詰めた。さあ、彼は本当にオリンピックに出場し、金メダルを獲得できるのかーー。フィクションのようなノンフィクションの話だ。津田のメンタルとバイタリティは常人離れしているが、同時に金に苦しんで物を売ったり、仕事を転々としたりする彼の生活の描写には、哀しいくらいのリアリティがある。山際はアスリートに憧れているがゆえに、アスリートの天才的なエピソードを鮮やかに描き出すが、アスリートを羨んでもいるゆえに、アスリートの卑近な部分も逃さず書いている。そんな気がしていて、その濃淡がまた面白いなと思う。
『筋肉栽培法』
ボディー・ビルダー、石井直方の話。研究者でもある彼のトレーニングは非常に計算されており、筋肉の付け方に関しても、大会でどの筋肉がどのような形ならばどのような評価を受けるのか、ということを考え抜いた頭脳的なものであって、それが屈強な肉体とのギャップがあっていい。山際のボディー・ビルダーについての考察も、本質を突いているように思えた。
「目的に奉仕しない。そのストイックな倫理観のなかで、彼は筋肉を限りなく大きく育てようとしている。パワーは、大きくなればなるほど、爆発の瞬間を切に待ち望む。爆発は、パワーのなかに、あらかじめ内在している。その爆発を、他の競技ではなく、再びトレーニングのなかで使おうとするのが、ビルダーなのである。たくわえられた力は、トレーニングのなかで消去するしかない。そこからまた、より大きなパワーが生まれてくる。ビルダーの肉体には、永久トレーニング装置が組みこまれてしまっている」
日本でのタイトルを獲り尽くし、これ以上目指すべきところがない虚しさを抱えながらも、石井はトレーニングを止められなかった。自身の筋肉をどうしようというのか。それは、「何のために生きるのか」という問いと同じで、誰にも答えられない。だから彼は「そういうことは、考えない方がいい」といい、山際淳司もそれを「なるほど、悪くない方法だ」という。自分の筋肉に対してきわめて理性的な男が、そのような無心の境地に辿り着く。それがなんだか不思議で、面白かった。
『ザイルのトップは譲れない』
アルピニスト(登山家)、森田勝の話。文字通り命を懸けて限界に挑むスポーツである登山には、やはり「どうしてそこまでするのか」という疑問は尽きない。そして森田という男は、K2の頂上に第一陣で登れないのなら意味がないので山を下りた、なんてエピソードが示すように、非常にプライドが高く、それゆえ何度も栄光を掴むチャンスを逃している。そんな二重に難解な人物である森田勝という登山家を、山際淳司は寄り添うようにして読解してゆく。
「どんな方法を使っても、勝てばいいのさ。結果がすべてだからね。そういう考え方がある。正論にちがいない。人は結果しか見てくれないのだから。しかし、それによって失われるものもある。自分に対するプライドである」
「やせガマン? そうかもしれない。本当は栄誉が欲しいのだ。誰だってそうだ。が、安易な妥協は自分で自分をおとしめることになるのも、また事実だ。やせガマンには、それなりの美学がある」
「森田勝は、自分のプライドにこだわった。そして栄光に逃げられた。そういう男だ。どうして彼を敗者といえるだろう」
そういうふうに言われれば、少しは森田勝という人間を理解できたような、そんな気がしてくる。森田は一緒のザイル(登山用の綱)を使っている仲間が重傷を負ったらどうするかという問いに、ザイルを切って仲間を見棄て、ひとりになっても山を征服する、というふうに答えていたらしい。しかし実際の登山中に森田のパートナーが転落した際には、彼は登山を中止し、ヘリコプターの出勤を要求した。このエピソードがとても好きだ。
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他にも、まだまだ語りたい作品はあって、特に『スローカーブを、もう一球』は僕が山際淳司の作品の中で最も好きな作品であり、山際淳司という作家の凄さというのが顕著に表れている作品だと思っている。特にラストシーンの文章なんかは、「これよりもシビれる文章に出会ったことがない!」というくらい思い入れがあるのだけれど、この作品だけでnoteの記事をひとつ書ける確信があるので、また次の機会に回すことにします。ただでさえ現時点でかなり文章量多くなっちゃってるしね。もっと短くて、さっぱりした文章を書きたいと思っているのに、どうしても想定よりも長くなってしまうのは悪癖な気がするので、いつか直したいですね。
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