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でんぱ組.incとは何だったのか ~トポスとしての秋葉原~【アイドル史研究 試論①】

2025年1月、でんぱ組.incが16年の歴史に終止符を打った。


彼女らは自身の活動終了を「エンディング」と名づけ、最後のライブには2018年にグループを脱退した最上もがも出演し話題となった。


筆者は昨年より、日本アイドル史の研究に勤しんでいる。

目標の一つが、乱立する数多のアイドルたちを一貫したナラティブの中で系統づけることだ。
書籍を読み、論文を漁り、新聞記事やネットメディアに目を通して、古今東西様々なアイドルについて見識を深めている矢先に開催されたのが、でんぱ組.incのエンディングライブだった。


でんぱ組.incと言えば、今や一大勢力となったディアステージを率いる、女性アイドルグループの雄である。
彼女らが活動を開始したのは2009年。数多のアイドルグループが乱立し、「アイドル戦国時代」と言われた群雄割拠の時代だ。混沌とした戦場を独自のスタイルで走り抜けたでんぱ組.incとは、一体何だったのか。

ここではひとつ、試論として、でんぱ組.incについて一考してみようと思う。






でんぱ組.incは、秋葉原ディアステージから始まった。

秋葉原ディアステージとは、末広町駅からほど近い雑居ビルの地下を間借りして営業を開始したバーである。2007年12月、後にでんぱ組.incのプロデューサーを務めるもふくちゃんこと福嶋麻衣子が開業した。

福嶋は東京芸術大学音楽学部音楽環境創造科に入学。ノイズミュージックや現代アートを探求する一方でパフォーマンスプロジェクト「喪服の裾をからげ」を掲げてインターネット上で生配信をして活動していた。
2002年、学生時代に楽器の電子部品を求めた福嶋が、秋葉原で出会ったのが萌え文化だった。

2001年にcure maid cafeがオープンし、メイド喫茶の黎明期だった時代。
当時の秋葉原にはまだホコ天が存在し、アイドルやコスプレイヤーによる路上パフォーマンスが盛んに行われていた。福嶋はそのストリートカルチャーに惹かれたという。

秋葉原との出会いによりアイドル文化に傾倒した福嶋が、当時無名だったPerfumeのファンだったとする証言がある。

ある日、若い女性アーティストらの個展に招かれた。(中略)私は持参したCDを流してもらった。テクノ音が鳴り響いて、ボコーダーで変換された少女アイドルの歌声が聴こえる。みんな、ぽかんとしていた
「あっ、Perfumeだ! わたし、大好きっ!!」
たった一人だけ、反応した女子がいる。東京藝術大学を出たばかりだという彼女は、パッと瞳を輝かせ、Perfumeの『チョコレイト・ディスコ』に乗って踊っていた。
もふくちゃん、こと福嶋麻衣子さんだ。そう、後に秋葉原の"萌え社長"として名を馳せ、でんぱ組.incのプロデューサーとなる。

中森2023、P.192

就職率47.0%と言われる音楽環境創造科を卒業した福嶋は、現代アートのギャラリーに就職する。世界中を飛び回って一流のアート作品に触れた福嶋が再び流れ着いたのが秋葉原だった。
23歳でギャラリーを退職後、上手く就職ができなかった時期も福嶋はいつしか秋葉原へ通うようになり、翌年どうにか出版社に入社した後もその気持ちは消えなかったという。

ようやく働き始めて、いいお給料もいただいていたのですが、秋葉原の魅力は断ち難く、そのうち、「私もこの世界に飛び込んでみたい! 秋葉原で “萌え系” の仕事をしてみたい!」と思うようになっていったのです。

福嶋、いしたに2011、P.96

こうして福嶋は秋葉原の地に秋葉原ディアステージを開業する。この「秋葉原への執着」は、でんぱ組.incを紐解く上で最も重要なファクターと言えるだろう。


秋葉原ディアステージの店内には小さなライブスペースがあった。路上パフォーマンスへの取り締まりが厳しくなった2007年、毎日ライブのできる店として開業したためだ。
立ち上げメンバーは福嶋以下、萌え文化に身を置いていた人々。そこには元STAR☆ANISの吉河順央、歌手の三上ナミ、そして、古川未鈴らがいた。

古川ら秋葉原ディアステージの従業員によって2008年に結成されたのが、でんぱ組だった。後のでんぱ組.incである。
2009年に相沢梨紗夢眠ねむの加入を機に現在のグループ名に改名。さらにメンバー構成を変えながらアルバム「ねぇきいて?宇宙を救うのは、きっとお寿司…ではなく、でんぱ組.inc!」やドキュメンタリーソングとして話題となったシングル「W.W.D」をリリースした。
2013年頃になると、アルバム「WORLD WIDE DEMPA」を始め多くの楽曲がオリコンチャートで上位を記録、全国ツアー海外ライブを興行、地上波テレビでの冠番組「でんぱジャック-World Wide Akihabara-」が放送されるなど、躍進を遂げるようになる。
2013年から2016年の時期をでんぱ組.incの全盛期とする評は多い。『日経エンタテインメント!』(2014年3月号)では、2014年にブレイクしたアイドルグループとして、でんぱ組.incとBABY METALを挙げており、この時期になってようやく「AKB48ブーム」が「アイドルブーム」に変化したとしている。


混沌を極めるアイドル市場で、なぜ彼女らは頭角を現したのか。でんぱ組.incの特色として、メンバーのキャラクター性がよく挙げられる。

でんぱ組.incは、メンバーそれぞれが固定化したキャラクターとして演出されている。メンバー個々人の振る舞いについては「自然体」であるとされているが、メンバーの容姿(ビジュ)に関してはその限りでない。
夢眠のボブカットや最上の金髪など、長期にわたって同じ髪形を維持し続けたことや、デビュー当時では一般的でなかったメンバーカラーを取り入れたことは、明らかにキャラクター性を意識したプロデュースと言えるだろう。

※アイドル史を遡ると、メンバーカラーという文化は意外と歴史が浅い。恐らく、ももいろクローバー(2008年結成)が戦隊ヒーローをモチーフに取り入れたのが最初と思われる。その前例を知っていたかは定かでないが、2008年結成のでんぱ組.incがメンバーカラーを取り入れたのは先進的であると言ってよいだろう。

これは、福嶋が抱える「秋葉原への執着」に根差したものであろう。
既存のアイドル文化ではなく、秋葉原の萌え文化、ひいてはアニメやゲーム、コスプレなどのサブカルチャーに立脚したプロデュースだったのである。

でんぱ組.incの特徴のひとつに「オタクに推される立場であるメンバーもまたオタクである」というものがある。事実、でんぱ組.incの初期メンバーは秋葉原的"萌え文化"に身を置いた人々であった。
これはメンバー自身によるセルフプロデュースにも直結する。

夢眠 うん、あの、私よくアニメになりたいとか言ってるんですけど、もともとカートゥーンネットワークのアニメの2次元感がすごく好きで。で、このアルバムのジャケットも、これ見ればもうでんぱ組.incだってわかるじゃないですか。

──そうですね。

夢眠 このデフォルメされたイラストでもわかるってとこまで来れてるんだから、もうちょっとそこを突き詰めたいなって。

──例えばどういうことでしょう?

夢眠 えいたそ(引用者註:成瀬)はここで髪の毛結んでるとか、ねむ(引用者註:夢眠)はボブとか、もがちゃん(引用者註:最上)は金髪とか、私たちずっと変えてないんですよ。そういうキャラクターとしてのレベルをもっと上げていきたくて。最近はちっちゃい子のファンも増えてきたし、誰かのおばあちゃんがねむのことを「おかっぱの丸い子でしょ」みたいに把握してるとかって話を聞いたりもして、それっていいなって思ったんですよ。海外に呼ばれて紹介されるときにも「ドラえもんさんと忍者ハットリくんさんとでんぱ組.incです」みたいな。私はそっち側に行きたいなって思ってます。

大山2015

アニメやゲームのキャラクターと同じように自分たちを推してもらいたい、という明確な意思のもとでのブランディングだったのだ。

秋葉原の都市論に詳しい明治大学の森川嘉一郎は、秋葉原の都市形成の特徴として「個」の原理に主導された街の変化を指摘する(曽根2018)。偏在化した趣味嗜好、つまり個性的なキャラクターが秋葉原という都市を形成したのである。

福嶋はでんぱ組が歌う楽曲として「もともと私が秋葉原へと興味を持つきっかけにもなった」(ピースオブケイク2015)という電波ソングを選んだ。ファミコンゲーム音楽の流れを汲むとされる電波ソングは、もちろん秋葉原カルチャーから持ち込まれたものであり、既存のアイドル文化には存在しなかったという。

でんぱ組.incの特異な個性はすべて、秋葉原という土地とその文化に裏打ちされたものだと言っていいだろう。
「個」の原理に主導された秋葉原の街において、でんぱ組.incが大きなムーブメントとなったのは当然の結果とも言える。


一方、秋葉原をルーツとするアイドルグループに、AKB48がある。グループ名に"アキバ"を冠し、秋葉原の地に建てた専用劇場を拠点としたAKB48だが、彼女らと秋葉原の関係性はでんぱ組.incのそれとは異なる。

そもそも、AKB48の拠点に秋葉原が選ばれたのは何故なのか。
2005年12月8日に初公演を打つ直前、10月5日にAKB48のオフィシャルブログへ投稿された記事にはこのような言葉がある。

秋元さんが先日の取材の中で 

「地熱」 「エネルギー」

という単語を使っていましたが、まさに今秋葉原にはこの2つがそろっているという事なのでしょう。

秋元さん曰く

「アイドルというのは、時代の一番エネルギーのあるところから生まれてくるのです。」

一時のブームを起こすのではなく、街を変える位のエネルギーを持つ劇場を創りたいと思います。

AKB48オフィシャルブログ「地熱。」

新人アイドルの熱狂的なファンを作る舞台として、オタクの街・秋葉原が選ばれたのだ。
経済学者の田中秀臣は、1公演1,000円(立ち見は500円)という赤字覚悟の料金設定で毎日公演を打つことで、秋葉原に存在したお金のない若いオタクに狙いを定めたと推測する(田中2010)。握手券を目当てに同じCDを何枚も買わせるといったAKB商法に対する批判もよく知られるところだろう。
そもそも、大規模なオーディションで集められた女の子たちをメンバーにしたという点においても、秋葉原ディアステージから始まったでんぱ組.incとは根本的に異なる。

つまり、AKB48はビジネス上の実利的な面から秋葉原という土地を本拠地に選んだと言えるのだ。
その本質的なルーツは秋葉原ではない。むしろ、秋元が過去に手掛けたおニャン子クラブの発展形と捉える方が自然である。



「土地マニア」を自称する福嶋は度々、秋葉原への執着を語る。

自分は“土地マニア”だから、デトロイトでテクノが生まれて沖縄からSPEEDが出てきて川崎ではヒップホップ、みたいにその土地と結び付いた音楽をやらないと嘘になると思ってたの。だから秋葉原でお店やっててみりんちゃんがアイドルやりたいってなったら電波ソングとかアニソンとかエロゲの曲とか、そういうのが土着の歌だよなって。

大山2025

2025年1月5日、でんぱ組.incのストーリーはエンディングを迎えた。
エンディングライブのステージ上に並んでいたのは歴代の衣裳、卒業したメンバーを含む15人分の巨大なサイリウム、そして、運び込まれた秋葉原ディアステージのシャッターだった。



秋葉原で見つけた素人のほうがずっと輝いてたし面白かったから。

大山2025

何者でもなかった秋葉原の女の子たちをトップアイドルへ導いた福嶋の言葉である。


熱狂に包まれたでんぱ組.incのエンディングライブ。
すべての楽曲が披露された後でスクリーンに映し出されたのは、宇宙から飛来した電波型のオブジェが、秋葉原を歩く少女の掌に落ちるシーンだった。

音楽ナタリー編集部2025





参考文献

福嶋麻衣子、いしたにまさき『日本の若者は不幸じゃない』(2011、ソフトバンククリエイティブ)

でんぱ組.incを扱った書籍は珍しい。著者の一人は福嶋自身。ディアステージ立ち上げのエピソードトークがずっとアツくて良い。
後半はライターのいしたにによる秋葉原論。本稿には盛り込めなかったがこちらも大変面白い。


中森明夫『推す力:人生をかけたアイドル論』(2023年、集英社)

以前の記事でも紹介した、アイドル評論家・中森の著書。
本稿ではディアステージ開業前の福嶋の目撃証言を引用したが、アイドル史の生き証人である中森がタイトル通り人生をかけて論じる。すべての証言が強くて面白い。


田中秀臣『AKB48の経済学』(2010年、朝日新聞出版)
さやわか『AKB商法とは何だったのか』(2013年、大洋図書)

どちらもAKB48のビジネスモデルを紐解いた本。前者は経済学者の著書である。
本稿の主題ではないが、引用・参照したので記載。


その他 (※最終取得日:2025年1月28日)


改訂履歴

2025/02/04
ご指摘を受け、電波ソングに関する記述を一部訂正いたしました。
2025/02/05
ご指摘を受け、田中10の言及部、及び参考文献の紹介文に軽微な修整を施しました。


※カバー画像出典:柴ほか2015

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