窮状に義憤!探検家 松浦武四郎
北海道を命名した人物
アイヌ民族を迫害した政府に警告を発し続けた人物
しかし、まだまだ、残した功績が知られていない。
最も北海道とアイヌ民族への貢献が評価されるべき人物の一人である。
最近もアイヌ民族に関するニュースがありました。アイヌの人々の尊厳ある父祖を祀るお墓から不当に遺骨を収集したり、盗掘したりと人道的にもけしからんことをしてきた歴史を公式に謝罪したとされています。
長い間、アイヌ民族から非難され続けながら頬って置いた学会が初めて謝罪した訳です。
ここで注目されているのが、松浦武四郎という探検家です。
先ずはニュースとなった記事を見てください。
北海道新聞より4月5日
日本文化人類学会が5日の記者会見で、アイヌ民族の意向を無視した過去の研究姿勢について謝罪し、道内のアイヌ民族関係者からは歓迎の声が上がった。ただ、具体的な再発防止策などは述べられず、謝罪以上の内容は示されなかった。遺骨問題や研究結果を報告しないといった過去の行為に対するアイヌ民族側の不信感は払拭されておらず、信頼回復に向け、学術界が今後どう対応していくかが問われている。
北海道命名したと言われる人物のプロフィールはこちらからどうぞ。
探検家
松浦武四郎
(まつうらたけしろう、文化15年2月6日(1818年3月12日) – 明治21年(1888年)2月10日)は、江戸時代末期(幕末)から明治にかけての探検家である。
16歳から諸国をめぐり、天保9年(1838年)には僧となるが、故郷を離れている間に親兄弟が亡くなり天涯孤独になったのを契機に、僧をやめて蝦夷地探検に出発した。間宮林蔵が樺太を回ってから30年以上後のことである。
東北6県と新潟県を合わせた面積に匹敵するその広大な土地は、日本国に接していながら明治以前まではその多くの地域で縄文時代とさほど変わらぬ漁猟生活が営まれていた。
1604年、徳川家康により江戸幕藩体制の一藩に組み込まれるが、それでも勢力範囲は道南の函館から熊石までの数十里の地(松前地と呼ぶ)であり、まさに未開の大地であった。
その土地に足を運び「北海道」と名付けた男、その男が松浦武四郎である。
中世以降、大和民族(和人)はアイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた。
アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代、擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったとみなされている。
しかし、もともと文字を持たない民族であったため、詳細は不明であり13~14世紀になって、農耕も開始され、海を渡った大和民族との交易も行われたあたりからその文化がわかってきた。
明治2年(1869年)には開拓判官となり、蝦夷地に「北海道」の名(当初は「北加伊道」)を与えたほかアイヌ語の地名をもとに国名・郡名を選定した。
翌明治3年(1870年)に、アイヌ民族への搾取を温存する開拓使を批判して職を辞する。
また、武四郎は単なる地理や自然の記録に留まらず、アイヌ民族やその文化に対しても敬意を表しており、民族と文化を守るために、まずアイヌ文化を正しく知って、理解してもらうことが必要として、アイヌ民族・文化の紹介を熱心におこなった。
武四郎が出版した『蝦夷漫画』ではアイヌの文化がありのままに紹介されている。
また、武四郎は、圧政に苦しむアイヌ民族の窮状を見聞きしたことで、幕府に対し、開発の必要性はもちろん大事であるが、それよりもまず今日のアイヌ民族の命と文化を救うべきであると、調査報告書の随所で訴えた。
2022年4月29日に放送された「NHK歴史発掘ミステリー」の番組では、武四郎が北海道の地名9,000をインタビューによって収集したこと、10,000キロを踏破したこと、その歩行は通常の倍の踏破力であり、独特の疲れにくい古武術「神足歩行術」という歩行術を会得していたこと、などが磯田道史などによって語られた。
アイヌ民族を正当に評価し、不当な評価を覆した松浦武四郎の足跡を辿ることは今まで見た事ない世界観を見せてくれるものと思います。
松浦武四郎記念館はこちらから
松阪牛で知られる三重県松阪市にあります。
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