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忘れられても残るもの〜母と野の花〜

    5月になって、空は青く高くなった。新緑は照り輝き、陽気で暑さを感じる日も増えた。「もう夏だな。」そんな言葉が自然と口をついて出る。本当の夏までは、梅雨の6月を通り過ぎないといけないけれど。

    そんな5月のはじめ、認知症の母が施設に入った。10年ほど前に若年性認知症を発症した母を、自宅で介護することに父はこだわった。当初は昼間の通所でさえ嫌がった父も、症状の悪化に伴って、数年前、デイサービスの利用を受け入れ、今回、とうとうグループホームへの入所を決心した。3月中旬の原因不明の高熱から始まった、母の度重なる転院のなかで疲労困憊したことが大きかったようだ。

    10年かけて、父は母の認知症を少しずつ少しずつ受け入れて行ったのだと思う。「10年もかかるの?」などと軽々しくは言えない。その痛みはきっと父にしか分からないものだから。

    実際、息子の私は何もできなかった。「こんなにも何もできないのか」というほどの端的な無力。ただ、こんなことを思うばかりだ。5年ほど前、母は私の名を忘れた。私を見ても何の反応も示さない。こちらから話しかけても、母は赤の他人から話しかけられたように脅えるばかりだった。その時はさすがにこたえた。母はもう私のことを覚えていない。誰にも言えない、静かで深い喪失感。その時初めて、父のこだわりのこと、その頑なさにひそむ寂しさと影を、少しだけ分かる気がしたのだった。ああ、父は私なんかの何倍も、これに耐えて来たんだなあ。

    そんな時、家に帰ると、私の息子が教科書をにらみながら、ウンウンうなり、苦しんでいた。中学校の理科の試験で、野草の名前を覚えなければいけないらしい。そんな兄の様子を見て、娘は「あ、それ、私の教科書にもある!」と言って、小学校の教科書を持ってきた。確かに、ほとんど同じ野草や野の花が載っている。二人が手で隠しながら写真を見せて、私に野草の名前をテストして来る。私がトンチンカンな返答をするたびに愉快そうに二人は笑い、熱心に教えてくれた。まったく、誰が試験を受けるのかわからない。

    そう、私は野草や野の花の名前を全く知らなかった。へえ、この白いポンポンみたいなのがシロツメクサ、ああ、聞いたことある。あ、この黄色い花がカタバミ?変な名前。この葉っぱ、クローバーじゃないの?少し背の高い、細い糸みたいな花弁の花はハルジオンか。きれいな名前だね。………おそらくこれを読まれた方はさぞや失笑されたことだろう。それぐらい、私は草花の名前を知らなかった。おかしい。確かに私も子どもたちのように、小学校でも中学校でも、それを教わったはずだし、テストでも答えたはずなのだが、私はそれらをきれいさっぱり忘れ去っていた。

    私の無知をケラケラ笑い、草花の名を熱心に教えてくれる子どもたちの姿を見ながら、不思議な既視感があった。最初はぼんやりと、次第にはっきりと。水底からゆっくり魚影が浮かんでくるように、私は突然思い出した。まだ若かった母とまだ半ズボンの少年だった私が連れ立って歩く姿を。

    小学1・2年の頃だったと思う。母は私と近所を散歩するたびに、道端や田んぼの畦の草花を指差して、ニコニコしながら、「この花の名前はなあに?」「この草の名前は?」と尋ねて来るのだった。そのたびに私は「知らん」と言っては駆け出した。許してほしい。何せ半ズボンの頃だ。しかも当時は「花の名前なんて女子の覚えるものだ、男が覚えるなんて恥ずかしい」などという、それこそどこで覚えたのか分からない思い込みもあった。

    母はそんな私の様子を見て、少し困ったような表情を浮かべながら、一つひとつ丁寧に草や花の名前を私に教えた。時には「花や草の名前を知っている優しい人になって欲しいなあ」という想いを直接口に出すこともあったと思う。

    ああ、何て親不孝な息子だろうか。そんな母の願いとは裏腹に、私は野の草花の名を何も知らない人間になってしまった。「知らん」と言って走り出す私を見て、母はさぞや落胆し失望しただろう。しかも、その事実すら何十年も思い出すことなく、忘れ去っていたのだから。

    それから、以前には気にも留めていなかった路傍の草花が私の目にとまるようになった。そのたびに私はスマホでネットの花図鑑を調べながら、一つひとつ、草花の名を覚えて行った。あの淡い黄色や人肌に血が通ったような温い橙色の花は月見草、ゆらゆら揺れる白い草はユキノシタ、乾いた地に強く根を張った赤紫の花はアカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)、星や宝石を集めたような可憐な花は母子草。………花の名を見出すことはいつしか、私の生活になくてはならぬほど深い充実感をもたらすものとなった。

    ある日、娘が学校の校庭で摘んだという小さな花束を持って帰って来た。根元をセロテープで止めた花束。六弁で薄紫の小さな花。真ん丸の実もかわいい。さっそく「紫色  小さい花」で検索すると、あった。ニワゼキショウ(庭石菖)という花だ。「1日花」とあったが、確かにその通りに夕方にはしぼんでしまった。あまりにも小さく短い開花。二人でC1000ビタミンレモンのガラス瓶に活けて、一瞬の美を心ゆくまで味わった。

    この年になると、あまりにも多くのものを失ったという思いが日に日に増して来る。取り返しのつかない多くのもの。母の記憶。

    若い頃に私を当たり前のように取り巻いていた、あの豊かな人々やもの、音や色、表情や言葉、情熱や歓喜やぬくもりは、一体どこへ行ってしまったというのか。

    それから、こんなことをして一体何になるのか、という徒労感にも日々襲われるようになった。私は人生において一体何を為し得たというのか。今までやって来たことは全て無意味ではないか。こんな文章を書いて、一体何になるのか、誰も読まないのではないか。

    普段は何とか取り澄まして、悟り切ったように振る舞っても、自分が欲しかったものを他人が手に入れて楽しそうにしている様子を目にしたりすると、もうダメだ。自分も周りから多くのものをもらっているはずなのに、そんなことは忘れて、嫉妬と妄執で心は食いつぶされてしまう。人の心はあまりにも弱い。

    でも、野の草花を見ていると、そんな負の感情は不思議と溶けて行った。

    若い頃の母はきっと、息子の教育に失敗した、思いが伝わらなかったと苦い思いを抱いただろう。やがて、その思いすら時の流れの中で忘れ果てて。私も同じだ。

    でも、それは無駄ではなかった。忘れられても残っていた。

    母の想いは、何十年の時を経て、あの頃の母よりもずっと年を取った私の胸に確かに残っていた。残っていただけではない。今、私は花の名前をみるみる覚えている。何という深い喜びだろう。それはまるで長い冬眠から目覚め、発芽する種子のように、私の心に深い根を張りつつある。

    だから、無駄ではないのだ。たとえその時にはどれほど無意味な徒労に見えようとも、伝えることを諦めてはいけないのだ。そう思いを新たにする。

    忘れられても残るもの。それはまるで野の花のようだ。

    母が生まれるずっとずっと前、おそらく歴史が始まる以前から、私が死んだずっとずっと後、きっと歴史が終わった後でさえも、野の草花は咲き続ける。誰に顧みられずとも。

    そして、人類史とは、あの時の母と私のような無数の親子が、師弟が、花の名前を伝えて行く営みなのだ。

    このことが、私の思いこみなどではなく、科学的にほぼ確実な真理であると、確かに信じられること。今の私にとって、それが何よりの慰藉であり救済である。

    だから、私もそのように生きたい。今後も何度も邪念にさいなまれるのだろうけれど。少なくとも、道ははっきりしている。

    そのような自然史および人類史の環を断ちかねない全ての強権的なものに否と言うこと。それは私にとって、この世界を受け入れるということと同じだ。

   母の日、家族皆でプレゼントを持って、グループホームに母を訪ねた。職員さんの話では、母は私や姉の名前に明らかに反応していたらしい。

    母の中にもまだ私は残っていたのだ。きっとその私は、中年の今の姿ではなく、「知らん」と言っては駆け回り、母を困らせていた半ズボンの少年なのだろうけれど。相変わらず、目の前の息子には、やたら他人行儀にぺこぺこ頭を下げる母なので。

    忘れられても残るもの。

    プレゼントは妻が選んでくれた白のサマーカーディガン。袋から取り出した瞬間、母は少女のように、にっこりと笑った。

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