剪断応力 〜小沢健二「流動体」への批判〜

    小沢健二の「右傾化」あるいは「全体主義化」についてはすでにツイッター上などで諸氏の指摘がある。それは端的に「小沢健二よ、お前もか!」と嘆息せざるを得ない悲惨事であり、しかもそれは小沢健二の認識不足や状況判断の誤りに起因するだけではなく、かねてからの思想信条の率直な告白でもあるらしいという点で、事態は一層深刻である。やれやれ。

    まず事実関係を整理する。1990年代を中心に活躍したミュージシャン・小沢健二の19年ぶりのシングルCD「流動体について/神秘的」が2017年2月22日(水)に発売され、オリコンチャート初登場2位を記録する等、異例のヒットを記録した。また、それに関する全面広告が2017年2月21日(火)付で朝日新聞に掲載された。

    この全面広告が深刻だ。まず前半では、長年のアメリカ暮らしの中で小沢自身が日本文化について見直した経験を、日本の食パンやイチゴ等の「ハイレゾ(高解像)」ぶりから語り、それを生み出した日本の閉鎖的かつ独特の風土を「ハイレズ(ハイレゾの意味の英語)・ジャパン」「ビバ、ハイレズ!」「ビバ、ガラパゴス!」などと、あられもなく賞賛するに至る。この時点でかなり頭が痛いのだが、小沢はさらに、「ずっと日本に住んでいれば当然、日本の悪い面が目につきやすいはず。(中略)/そんな中、悪い面がさほど目につかないで済む海外暮らしの身だからこそ、少々点を甘くしてでも『大丈夫、良いところもいっぱいあるよ。近すぎて見えないだろうけど』と伝える責任が少しある気がしている」などと書く。でもね、小沢さん、この時点で状況を決定的に読み誤っていますよ。「わが国」は今じゃテレビでも何でも「日本スゴイ!」の連呼ですよ。

    さらに深刻なのは後半だ。殺陣が時代劇からヒーローものへと続き、軍歌がウルトラセブンの主題歌につながるように、文化や歴史は連続する、と説き、次のように書く。「以前『第二次世界大戦後、日本は(あるいは、ドイツは)民主主義国家として、新しいスタートを切った』というお決まりの歴史解説がピンとこない、と書いたことがある。今も、そう思う。/国なんて大きな人の塊が、リセットボタンを押すように、それまでの動きを完全に停止して『新しいスタートを切る』なんてことができるんだろうか?現実の中には大きな慣性があって、文化や精神性は、いや生活は、あんまり変わらないんじゃないだろうか、と。/その慣性は、伝統とか、文化とか、歴史と呼ばれる。」「今の僕らが持っている、驚異的な(いや、本当に)『ハイレズ・ジャパン』の高解像度文化の起源は、ずっとずっと昔にあるだろう。/今の食パンの起源は、パンのレシピがヨーロッパから日本に渡るよりも、ずっとずっと昔にある。(中略)/その起源を追っていくと、それは遠く遠く、霞の中へ消えていく。/無の中へ。/その、ものすごく長い時間の上に、僕らはいる。」

    以上から、現在の小沢の立場が、「左派スピリチュアリズムの日本主義化」「戦前の超国家主義に近接」(以上、中島岳志)「スピリチュアリズムでコーティングされた全体主義」(松浦大悟)と指摘される理由も分かるだろう。補足すれば、小沢の祖父は、満州国にも深く関わった民族主義者の小澤開作であり、小澤は満州国での「五族協和」の理念を信じた理想主義者であったらしい。とすれば、小沢の描く世界の国際性と国粋性の奇妙な共存の由来も分かる。小沢は国際結婚してアメリカで暮らすほどには国際性に富んでいる。一見してポップで、リベラルにさえ見える。だが、その国際性の中心には確然と「日本」が存在している(※1)。

    とはいえ、「右傾化」「日本主義化」という語は若干、現実からずれているかもしれない。おそらく小沢にとっては元々そうだったのであり、人生経験の中で、より明瞭になっただけのことだろう。1990年代にすでに、歌詞の中で「神様」に触れる小沢のスピリチュアリズムは歴然と存在していたし、同時代のオウム真理教との関連の中でそれを指摘する声も当時からあったと記憶する。とはいえ、今回、ここまで露骨に自らの立場を表明したのは確実に小沢の自覚的な「意思」だろう。何しろ歌詞には「意思は言葉を変え/言葉は都市を変えてゆく」とあるのだから。

    そうなると、「もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら?/並行する世界の僕は/どこらへんで暮らしてるのかな」という歌詞も存外の重みを持ってくる。この場合の「間違いに気がつく」とは、戦後日本の状態を指すという解釈が可能だからだ。そうなれば、「並行する世界」とは「戦前のような超国家主義の日本がそのまま存続する世界」ということになる。タイトルの「流動体」も「静止状態においてせん断応力が発生しない連続体の総称」(Wikipedia)という定義からすれば、端的に「敗戦という切断を経ていない日本の文化や歴史の連続体」に他ならないことになる。そうなると、「言葉は都市を変えてゆく」という前掲の言葉は、自国の歴史や文化を間違いと捉える戦後日本の「自虐史観」を自らの言葉で変えていくという、小沢流「戦後レジームからの脱脚」宣言に他ならないことになる。・・・「ただのポップスの歌詞を、何、深読みしてんだよ?」と、あざ笑うなかれ。そう読むことを促しているのは当の小沢自身だ。表面的な軽やかさの底に恐ろしく政治的な含意が存在するのだ。

    だが、日本文化の連続性を言うときに、どうして小沢は、「戦前的なもの」(殺陣や軍歌)だけを引き合いに出すのだろうか?「昭和元禄」という言葉が端的に示すように、戦後の日本経済の繁栄こそが江戸時代の長い天下泰平の「連続」だと捉える見方も可能だし、「食パンやイチゴのハイレゾふり」という例は、むしろそのような「江戸=戦後的な文化や伝統」に由来すると考えた方が自然だ。なるほど、小沢の言うように、歴史に100%の切断はあり得ない。だが、だからといって、100%の連続もあり得ない。当然ながら、「日本の文化や歴史」といっても、一つの要素で定義できるほど単純なものであるはずもない。そこには様々な「剪断応力」(連続体に切断をもたらす外部からの力)によって、無数の切断や分岐が生じているはずだ。その総体こそが歴史であり文化であろう。ちなみに「剪断応力」は連続体から螺旋状のねじを作る際にも必要だ。日本の文化や歴史を連続体と捉えるとしても、せめて戦前的なものと戦後的なものとが緊張状態の中で絡まり合いながら形成される「螺旋状」の連続体ぐらいには、モデルを複雑にしてもいいのではないだろうか。

    だから唐突だが、真の課題は愛だ。連続していなければ愛せないのか。切断や傷を含めて愛することこそが真の愛ではないのか。小沢の「意思」にその「愛」はあるか。むしろ「誓いは消えかけてはないか?/深い愛を抱けているか?」と小沢が言うときの「愛」にはナルシシズムしか感じられない(※2)。だからこう問い返す。他者や偶然や世界や運命への深い愛は抱けているか?それこそが真に誇るべき文化や歴史や伝統ではないか、と。

    「トルソ。——自身の過去を強制と窮乏との所産と見なすことを知っている者だけが、現在のいかなる時点にあっても、過去を自身のために、もっとも高く価値あらしめることができよう。なぜなら、かつての生は、最善の場合ですら、輸送の途中で四肢が折損して貴重なトルソを残すだけとなった、美しい彫像にたとえられる。ひとはその素材から、自身の未来のイメージを切り出さねばならない。」(ヴァルター・ベンヤミン「一方通行路」野村修訳、岩波文庫『暴力批判論』より)

注(1)ちなみに歌詞の中に「ほの甘いカルピスの味が 現状を問いかける」という奇妙で唐突な一節があるが、カルピス自体が日本発祥の飲み物で、満州国設立と関係があるそうだ。昭和9年の東京朝日新聞にも「カルピスは満州國の味がする」といった惹句の広告が掲載されたとのこと(詳細は中島岳志のツイッター等を参照)。小沢がこのことを知らないとは考えにくい。全面広告を打ったこと自体がそれを証している。

(2)カップリング曲「神秘的」では、「イスラム教」にも「キリスト教」にも言及されていて、宗教的寛容や他者への配慮は十分されているではないか、といった反論には、戦前の超国家主義者がイスラムとの連帯を本気で考えてコーランの学習等をしていたことを挙げればそれで十分だろう。繰り返すが、その国際性の紐帯には日本がいる。

    付言すれば、小沢健二を宮沢賢治に比定する意見がツイッター上でも見られたが、正確な認識だ。宮沢も「八紘一宇」の理念を生み出した田中智学の国柱会の一員であり、超国家主義的色彩を色濃く持つ人物だ。スピリチュアリズムでそれを見えなくしてしまう点もよく似ている。(2017.3.14.執筆)








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