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実は空き家ではなく昔の郵便局を買った話

千葉へ戻ってきてから前回断念したお風呂のリノベ計画で頭を悩ませる毎日、膨らむ妄想と萎む財布のせめぎあいです。

というわけで、この物件の中で一番危惧していた箇所はこのお風呂なので、まあ予想通りボロかったわけです。

でも、私が空き家を判断する優先順位では、お風呂はそんなに順位が高くないんですよね。
理由は雨漏りとかトイレ(特に下水まわり)は自分で直せないし、チャレンジしてもすごいお金がかかるけど、風呂や台所は工夫すればそこそこのお金で自分で作れるので。

あと体質上必ず毎日風呂に入らないといけないんですが(夏はシャワー2回とか)、強制されると反抗したくなるあまのじゃくなので、お風呂めんどくさいってのがあります。

とはいえ、風呂に入れるのは絶対要件ですから、次は何が何でも使える状態に持っていきたいです。

で、この物件、水回り以外の部分は実はかなりの大きな豪邸と言っていい物件です。(大きさは)
見に行ったときはそう感じなかったのですが、それはその直前に見た物件があまりの豪邸すぎて感覚が麻痺してました、はい。

そっちも安かったので心動いたのですが、豪邸すぎるけど立地条件が結構厳しくて解体に4桁近くかかるかもという時限爆弾リスクがあり、私が死んだ後に子供らに不良債権を残すわけにはいかないのでやめました。あの物件が平地のポツンと一軒家なら絶対買ったのに。(だから安かったんだろうけど)

空き家探している皆さん、買うときは壊すか売るかしたときのこともちゃんと考えておきましょうね。

話は脱線しましたが、つまり改めて見てみると豪邸なんです。なにせそもそもが公共建築物ですからね。

旧輪島三井郵便局です それっぽいポスト置きたいけどまじで郵便入れられるのでやめときます

場所は、輪島市の三井(みい)という地区です。

副業でテロップの地図を何度も書いていたら地図書くの早くなった!

三方を海に囲まれた奥能登ですが、ここは山の中です。能登空港まで車で8分!出発30分前に家を出れば楽勝です。京急風に書けば「羽田まで最速90分!」
すぐ近くを走る無料の自動車専用道(のと里山海道)が金沢まで伸びていて、金沢の実家まで信号2つで帰れます。(94kmあるけど)

昭和の初めまでは村として独立していました。縄文時代から人が住んでいた遺跡があり、奈良時代には「駅」があったと文献に登場します。小さいながら人の営みがずっと続く歴史ある地域です。

その旧三井村のメインストリートにある家です。メインストリートと言っても30件程度ですが。

登記簿やネット検索、地域の人に聞いた話を総合するとこの地区と家の歴史はこんな感じです。

おほんっ!(咳払い)

昭和のはじめ、この周辺は林業で栄えていました。「アテ」という木の産地だったんです。「アテ」は地域名で一般的には「ヒバ」(青森ヒバが有名)というヒノキの派生種で高級木です。
その木を輸送するために、昭和10年に輪島まで建設中だった旧国鉄七尾線の能登三井駅ができました。

「駅ができるとなったらこの町は栄える!郵便局が必要だ!」と言ったかどうかは知りませんが、そんな経緯で翌昭和11年に駅から50mの場所に地元の地主さんが土地を貸して郵便局が開局したんです。

横から見た旧輪島三井郵便局 撮影は去年の11月です

それがこの家です。御年85歳!

昭和11年といえば二・二六事件があり、長島監督が生まれ、日本にプロ野球が誕生した年です。原監督のお父さんもこの年に生まれています。
もう天国へ行ってしまった私の父より年上です。

この地は2007年の能登半島地震で震度6に見舞われていますが、雨漏りもなく生き残ってます。さすが郵便局、頑丈にできてます。

家の中には郵便局時代の面影も色々残ってます。

この天井のロウ引きの碍子配線。当時の住宅のレベルではないです。
電報とか扱っていたんでしっかり作ったんでしょう。 松下幸之助が若い頃やっていた電気工事はこういうのだったんでしょうね。
私は電気工事士の教科書で眺めただけで、ロウ引き配線全くわかりません。

たぶんもう使っていないはずなんですが、電気系統は度重なる改築でめっちゃ入り組んでいて確かめるまでわかりません。
インテリアとしてはかなりいい線いってますが。

でも、この配線、地上4mほどの位置にあって足場組まないと確認もできないんです。
まあ、電気はちゃんと使えているので当分は大丈夫そうですが。

土間の隅にある流し台。かまどやガス管が通っていた跡があるので、おそらくは郵便局時代の給湯室。事務員さんたちが女子バナしてたんでしょうか

当時はこの能登三井駅の周囲200mに村役場、小学校、駐在所、郵便局、消防団とほとんどの施設が固まっていたんですが、人口が増えて手狭になったのか昭和40年代に小学校と郵便局がちょっと離れたところに新築移転しました。

その頃が人口ピークだったんでしょうね。
で、空いた建物を地主さんは貸すことにしたようで、そこを借りられた方がどうやら能登杜氏の方だったようです。

能登のお酒はそれほど有名ではないですが、能登杜氏は有名です。彼らは冬になると日本全国へ散って各地の銘酒を作っていました。

杜氏さん、稼ぎが良かったんでしょうか?
郵便局のフロントとして使っていた部分を豪華に大改装しました!

玄関開けたらこれですよ!
見た人みんなに「旅館業やるの?」って聞かれますがその予定はありません。
DIY合宿とかはそのうち企画するかも

なので、1階の前半分はなかなかに壮観です。そして後ろ半分は普通に能登の家です。

居間として使われていたと思われるところ

2階はなんちゃって改築を繰り返している跡がありますが、割と郵便局時代のままのような空間が多いです。

2階廊下と奥の扉はおそらく昔のままですね。
間取り図には「洋間」って書いてあったけど畳外しただけやろ!しかも床に穴空いてます。
隣接して建っていた美容室への通路にしていたと思われる扉 美容室は取り壊して外壁は板貼ったけど、扉はそのままってなんちゅうやんちゃな修復
この美容室の滅失登記が遅れたため引き渡しできていませんでした
今は登記移転も終わって残金もちゃんと払いました

そんなわけで、全15部屋と台所、プラス土間です。十分豪邸です。
前から見たらそう大きく見えなかったんですが、それは目の錯覚、公共建築物ですから天井高が高いんです。3m近くあります。

2階の窓から見える右向かいの家の3階の窓が同じ高さです。左の家は高いですが1階が自動車修理工場なのでそもそも高いのです

だから外から見ると縦長の2階建て洋館風住宅に見えて、直前に見た物件の記憶もあり見誤ってしまったんですね。


歴史に戻りますと、その後林業の衰退で過疎化へまっしぐら。能登三井駅も民営化の後、輪島までの線路が2001年に廃線となり、駅も営業停止、今では駅舎を残すのみで、通りに人影もまばら、というか20分に一人見る程度。

人も代替わりして、この建物は築後85年を経て130坪の土地と15Kの建物合わせてハイエースの新車買うくらいの価格で私のものとなったのでした。

ここまで読んだ方は「なんてすごい家だ!」と思われるかもしれませんが、もちろん安いには訳があります。

躯体は頑丈なんですが、家として作られたものではないのでユーティリティ関係は悲惨です。
杜氏さん、亭主関白だったんでしょうか?この家に洗面所がないんです!というか洗面台もない。風呂の小さい鏡が唯一の鏡です。

家の中で鏡はここだけ

風呂は超狭くて冷たくて改装しようにもユニットバス入りませんっ!
しかも浴槽穴空いているしね。

そして、風呂に行くにはなぜか土間に下がってから上がらないと行けません。不思議な作りです

台所は南向き、住宅にした際の改築で増築された部分で、ここだけ妙に天井が低いです。

窓ばっかりで木枠の昔の窓も混ざっていて天井低く、冬は隙間風、夏は灼熱です。 家事するのきっと大変だっただろうなあ。それにしてもシンクだけやたら数が多いのはなぜだ?ここが洗面所?

トイレは土間にあります。寒いです。

一応小便器と洋式両方あります

ただし、トイレだけは新しい改築で、1980年代以降に浄化槽に切り替えて洋式水洗ウォッシュレット付きに変わってます。しかもウォッシュレットはその後更新されて割と最新機種です。やったね!

ここだけ手すり付けてバリアフリー化しているが、手すりを必要としている人がここまでたどり着けるのか?

そして、断熱は皆無です。なにせ家の中に壁がありません。よくある日本家屋同様に柱と建具だけでできてます。外壁にも断熱材が入っている可能性はまずないです。
土間は隙間風ビュービューです。(元は小包集荷場ですからね)

外への扉に穴が… 時々落ちてきた屋根雪のかけらが土間に入ってきます

そんなわけで、もうDIYのやりがいしかない家です。
1部屋3ヶ月かけてリノベしても4年かかります!

ここでやりたいことは色々あるんですが、修繕の方針としては「小遣いプラスアルファの範囲で都会のサラリーマンが頑張ったらフルリノベできるんだ!」ということを証明したいと思っています。

テーマとしては洋館風なので「大正浪漫」めざそうかと。(昭和11年建築ですが)

最初の3ヶ月位は設備も揃えるので副業で稼いで貯めたわずかな貯金を惜しみなく(惜しむ余力がない)投資しますが、あとは毎月5万以内くらいでコツコツやっていきたいと思っています。もちろんコスパ追求しますので、最小の投資で最大の効果を狙います。(自分の人件費は除く)

多分長い話になりますが、よかったらフォローなどしていただき、お付き合いくださいませ。

次は1万円でできた防犯対策!


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