怒りの正体を知りたい#65
【怒り】
おこること。 はらだち。立腹。※広辞苑 第七版より
腹が立つとは、どういうことか。調べると「おこること」と、反復的に書かれていたので考えてみる。
最近、よく怒りに支配される。
さっきまで何もなかった体の中に熱がうまれ、かーーーーーっと熱くなり、出たくて止まらないというように気持ちが一気に沸騰し、勢いよくマグマの様に言葉となって出てくる。
もちろん、後悔する。でも、傷つけるとわかるまで、止まらない。
なぜそうなるのか。知っている。
自分の思い通りにいかないから。
恋愛以上に育児の怒りが不毛で卑怯なのは、対等ではないからだ。
それを知っているから、あとから後悔が波のように押し寄せる。
失敗も、自分のことなら飲み込んだり、自分で消化できるけど、子どものことだと、そうはいかない。
しいて言うなら、自分の管轄だからと思っているから、想いがつよくなるのだろう。もどかしさがこみあげてくる。
自分だって、最初から色々できたわけじゃない。
だから最近はよく、小学生の頃の自分を呼び寄せる。
そうするとやっと、同じくらいの目線で見ることが出来る。
そして、気づく。当時から、自分はすっごく意地悪だったなぁと。
本質的には変わっていないな、と。ということは、自分の問題だ。
自分の思い通りに行かないところで立腹してしまう。
そこが根底にある。
昔から家族に対してそうだった。思い通りにいかないと、台風の様に荒れ狂い、暴れていた。
家族は、ただその厄災が過ぎるのを待っていた。理不尽に怒りを振り回し、それでも、家族の一員として居場所があることが、私の自己肯定感をつくってきたのかもしれない。
そして、副作用もあった。それは、顕著に兄弟にでた。嵐が過ぎ去るまで、自我を消すようになったり、失敗を恐れるようになったり、思春期にいろいろな形で出てきた。
それを見ているのに、また同じような失敗をしようとしている。
怒りは、飼いならせるのか。怒りは、自分に向けることができるのか。
善処をしようと物理的に、様々な努力もしている。
しかし、だからこそ、それがうまくかみ合わなかったときに、ずれてしまった時に、まわりに理解されなかったときに、また爆発することもまだ多々ある。
では、関わらない方がいいのか。わからない。
親は、あまり関わらなかった。代わりに、自分の時間の使い方が増えた。兄弟もいたから、不自由しなかった。しかし、その時はお守りの様に祖父祖母の目や、よりどころがあった。
優しい母でありたい。理解者でありたい。並走する家族の一員でありたい。
怒りは、底に沈めておきたい。飼いならさなければいけない。
もう、母なのだから。でも、すごく難しい。
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