安定を崩す

そもそも「コミュニケーション支援」は必要なのだろうか?

とある人と初めて対面した時に、ふと考えました。
その人は、当たり前ですが私と出会うその日まで生きてこられてきた方です。
つまり、何かを飲み食べ、生活して家族と暮らしてきた。
そこには、人それぞれの「安定」があったはず。

この子は、こんな時は楽しんでいる。
この子は、こんな時はつまらない。

親や身近な人たちによる読み取り(勘もあるのかな)によって
その家族やコミュニティ内で安定してきた。
そこに「こんな方法で遊べる」「この機器が使えるようになれば生活の幅が広がる」というきっかけは、必要なのだろうか。
周りの「やってほしい」の押し付けになってしまっていないか。

○○だと思っていたのに、丁寧に聞いてみたら違った。という事実は、それまでその人が、その家族が作り上げてきた安定を崩してしまうことに繋がるのではないか?と急に考えてしまいました。
意思疎通が難しい子どもに対し、周囲の思いや願いの「押し付け」によって安定が築かれているなら、コミュニケーション機器の導入は安定を崩すことに繋がるのでしょうか。

しかし、崩れた安定を再び手に入れようと試行錯誤することが成長に繋がるのだと考えています。
「うちは結構です」という言葉の裏には「安定したルールを崩されたくない」という思いもあるのだと思います。ちょっと疲れている、今は新しいことにチャレンジする余裕はない・・・色々あります。

でも。人はいつも同じ気分ではない。「今日はちょっとやってみようかな」そんな瞬間もあります。
そんな時に、すぐに手の届くところにチャレンジしてみたいものがある。
そのような環境を準備していきたいなと考える日々です。

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