スイッチ使ってます
「スイッチ使って遊んでいます」「スイッチ使ってみたい方はぜひどうぞ」
こんなフレーズで情報発信しているところも、特段めずらしとも思わなくなってきました。
ここで、へそ曲がりな自分は、当然、素直に「すごいですね」と言えないのです。
単純にボールを転がす。という目的であっても、何やらものすごい、NHKで放送されている「ピタゴラ装置」のような仕組みで、遊んでいる様子を発信しているところがありました。
装置自体は、確かに。ボタンを押すだけで、何かが動き、ボールが転がる。
でもやっぱり、そこに「当事者たちの喜び」があるのかどうか、私には見えない。
周囲の「すごい(装置)!」「素晴らしい(動き)!」の感激ぶりはわかるし、その仕組みを思いつくだけ「素晴らしいでしょう」と言いたいのもわかるのですが。
誰のための遊びなの?
誰のための支援なの?
そして、誰が一番楽しんでいるの?
AT機器や支援手法は年々開発され、わずかな力で様々なものを操作できるようになりました。
でも、その操作は、誰のためのものなのでしょう。
スイッチ使ってさえいれば。我が子だってなんでもできる。
そう思うのが間違いだと言いたいのではありません。
むしろ、そう思わなければ「やってみよう」という動機は起きません。
信じることは大事なプロセスだと思います。
しかし一方では。
様々な支援手法や技術も、使う目的や使い方を間違えると
本人の思いは置き去りに、周囲が楽しむためのパフォーマンスになるのでは?と
常日頃、疑問に思うのです。
スイッチを、「使ってみたい」のは、周囲の人間ではないのか?
先進的な支援機器を使わせてみたいという周囲の期待を背負って
何が動いているのかもわからずに、操作している子どもがいるとすれば・・・
道具はあればいい、使わせればいいというものではないのではないでしょうか。
何か違う、もしかして、その遊びに装置は必要ないのではないか。
スイッチさえあれば、コミュニケーションができると思い込んでいる人たちの多さに、少し、危機感が募るばかりです。