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小説『ヒーローになった団塊ジュニア』

  「ヒーローになった団塊ジュニア」

              野間 栄子


 東京行きの新幹線の発車まで2時間半あったので、私は駅前から少し歩いたところにあるお城の公園に出かけた。

公園の高台には昭和の半ばに復元されたコンクリート造りの天守閣があり、桜の季節には息をのむほど美しい桜並木が見られる……とガイドブックに書いてあった。今の季節も一面真緑で、また別の美しさがあるな、と私は思っていた。天気もよく、風もない麗かな午後だった。

私はブラブラ歩いていた。手には『この辺りで人気のあるベーカリーなんですよ』と教えてもらったパン屋のサンドイッチがあった。ベンチか何かがあればサンドイッチを食べて野菜ジュースと一緒に簡単な昼ごはんにするつもりだった。

今回の出張はうちの会社の新製品の紹介と従来の製品の販促を目的としていたけれど、取引先の反応はあまり良いものではなかった。うちの会社と長年取引をしている、○○会社の社長さんは最近病気が見つかった、とかで気弱になっていた。

『もう商売をたたもうかなって思ってましてね……治療もしなくちゃいけないし、歳も歳だし、息子たちは跡を継がないって言ってますし』

息子さんたちは東京でサラリーマンとして働いている、という説明の後、社長さんは大きなため息をついて言った。

『どんどん人が減っていってるでしょう?色々と社会がね、変わってきているから……もう社会の変化についていくのは止めたいんですよ……疲れました』

 そんな話を聞いて、私も沈んだ気持ちになっていた。空はこんなに青くて新緑だってこんなに美しいのに……そういえば、私もしばらく忙しくて健康診断に行ってない……

『手術しても……しばらくの間は再発とか色々あるそうなんで』

社長さんはそんなことを言っていた。

そういえば、数年前に社長さんと話した時には社長室にガラス製の大きな灰皿があって、社長さんはぷかぷかタバコをふかしていた。最近流行りの電子タバコは『あんなの味がしないよ』なんて言っていたのに。禁煙したのかもしれない。


 私は空いているベンチがあるのを見つけた。天守閣の周りには広場のようなスペースがあって、お城とは全く不釣り合いのフランス風の噴水があった。母親連れの幼児が何人か、噴水の周りを走り回って遊んでいる。母親たちは芝生の上にカラフルなレジャーシートを広げて、その周りには数台のベビーカーが置かれていた。私はベンチに腰をおろしてサンドイッチに齧り付いた。

『50代か』

83歳の父が私に羨ましそうに言った。
『俺は50代に一番戻りたいよ。仕事でも一番裁量権があるし、一番金回りがいい時だろ?子供も手が離れて……人生で一番好きなことができるのが50代だもんな』

 私はハムサンドイッチを食べながら、その時感じたモヤモヤと思い出していた。

仕事?私の会社は数年前に外資に買収されて、訛りのある日本語を喋るマネージャーが全権を握っている。私には裁量権のさの字もない。
金回り?給料は相変わらずだ。毎月の所得税だの厚生年金だの健康保険だの、政府が取っていく金は多くなるばかりだけど。
子供?私は独身だ!こんなに金がないのに、結婚して妻子を養えるとは思えない。
これが人生で一番好きなことができる年代なのか?……私は小さく笑った。

50代男性か……団塊ジュニア、と呼ばれた我々は人数が多くて全方向から常に『邪魔者』扱いされてきた。

人数が多かったから、小学校の校舎はプレハブで、人数が多かったから受験戦争は苛烈で、人数が多かったから『使い捨て』の人材として扱われ、就職の時にはバブルが弾けて……競争から脱落しないように就職してからもやることは山積み、給料は安く、『代わりはいくらでもいるんだから』という言葉と共に上司からのパワハラは『社会人ならこれくらい当たり前』と正当化された。

「それなのに、今じゃ……老害って言われるもんな」私はつぶやいた。

 下の世代を悪く言うつもりはないけれど……もう少し遅く生まれていたら、楽だったろうな、と思うこともある。でも、若い人は若い人で悩みや苦しみもあるだろうし……もう少し若かったら!なんて考えるだけ無駄だろう……
まあ、あの社長さんのように、これからは病気にならないようにしないと、健康診断に行って……もう若くないんだから……
そんなことを考えていた時だった。


「宗介!宗介!そうちゃん!」

 女性の悲鳴が広場に響き渡った。私は何事か、と思って顔を上げた。芝生の上、レジャーシートを広げて子供を遊ばせていた母親たちの集団が騒然としている。

「そうちゃん!しっかりして?そうちゃん!宗介!宗介!」

 一人の母親が携帯電話を片手に話しているのが聞こえた。

「はい……○○城公園にいます。なんか……おやつのブドウを喉に……はい、喉に詰まらせたようなんです。喉に手を入れても吐かなくて……顔色もどんどん悪く……」

 母親がそうちゃんと呼ばれた男の子の背中を狂ったように叩いているのが私のベンチの方からも見えた。

「10分で救急車が来るんですね。はい……はい……わかりました。お願いです、急いでください!急いで!」

 泣いている母親もいた。呆然と、お友達を見ている子供達の一群を見て、私はサンドイッチを食べるのをやめた。


「すみません。別に医者でもなんでもないんですが……私、あのう……衛生管理の仕事をやっていまして……」

正確には数年前にやっていた、であるが。
我々、団塊ジュニアというのは、衛生管理とか安全管理とか、そんな付属の業務を上司に丸投げされて、講習を受けなければならなかった。付属の業務をして、通常の業務をして……信じられないくらい長く残業しなければならなかった。
私は言葉を続けた。

「業務の一環で……私、救急の講習とか受けていたんです。その時に窒息時の応急処置を学んで……ハイムリック法を試してみましょう」

 母親たちは一斉に私の方を見た。顔には恐怖と不審者を見るような警戒したような表情が浮かんでいた。レジャーシートの上にはぐったりと横たわる宗介くんがいた。私はもう一度言った。

「私は△△興産の榎本と申します」

私は営業マンとして培った慇懃で礼儀正しく、言葉を選んで慎重に言った。急いだほうがいい、と思ったからだ。

「男の方が力があるんで……私がやった方がいいと思うんです」

「……」

「ハイムリック法と言うのは……」

私が説明しようとした時に、宗介くんのお母さんと思しき女性が叫ぶように言った。

「お、お願いします!」

「あ、はい」

「この子を助けて!」

 

私はすぐに宗介くんの隣にしゃがみ込んだ。数年前に受けた講習を思い出していた。額が禿げ上がっているけれど、ハンサムな産業医の言葉が脳裏に蘇った。

『場所はお腹の上の方』

私は宗介くんのお腹の上を探った。宗介くんはミッキーマウスの分厚いTシャツを着ていたので私はミッキーマウスの顔あたりだろう、と見当をつけた。

『片方の手で握り拳を作って、もう片方の手で握ります』

 私は左手で拳を作り、右手でそれを包む作業を繰り返した。こんな感じだろう、と考えていた。額の禿げた産業医は続けた。

『患者さんの背後にまわりましょう。そして抱き抱えて、手前上方に突き上げる!』

 私は宗介くんの後ろに回ってぐったりした小さな体を抱き抱えた。そして手前上方に突き上げた。


 一度目は何もなかった。
私は焦った。母親たちは『何してるのよ?』『おっさん、早くしてよ』『何、こいつ無能なくせにしゃしゃり出てきたの?』という顔をしていた。そんな顔しないでよ……と私は泣きたい気持ちでそんなことを思った。

 そして私は二度目の突き上げを試みた。
宗介くんがえずくような、そんな呻き声がしただけだった。私の背中にじっとりとした汗が出てきた。場所は……圧迫の場所は合っているのか?と思った時に、宗介くんが完全に「げえっ」と言った。私は問答無用で三度目の突き上げをした。

「うおえ……げえっ!」

 レジャーシートの上にぶちまけられたのは、黄色い大量の液体と大粒の緑色のブドウ一個だった……


「宗介!」

「ママ……うえーん!」

宗介くんはシクシク泣き出した。お母さんは宗介くんを抱きしめてこちらもおんおん泣いている。

 救急車のサイレンの音は私の耳には届いていなかった。気がついたら清潔そうな青い制服と白いヘルメットにマスクをした救急隊員が担架を持って立っていた。

「ああ!よ、よかったです」救急隊員は言った。「吐いたんですね!吐けたんですね!」

「こちらの方が!」母親の一人が悲鳴のような声で説明した。「こちらの方が助けてくださったんです!」

「なんか、なんとか法ってのをやってくださって!」

「宗介くんの顔がどんどん白くなって言って……死んじゃうんじゃないかって思っていたら……」

「本当に良かったです」

「ありがとうございました」

「本当にありがとうございました」

「ありがとうございます」救急隊員が私に言った。「処置が早くて……本当に良かったです。あなたがいてくれて……良かった!」

「あなたがいなかったら……私たちはラッキーでした」

 母親たちは私に頭を下げた。私は気が抜けたように突っ立っていた。人の命を救ったのは初めてだったし、気が抜ける、というのはこういうことなのかもしれないな、と考えていた。

「とりあえず、搬送しましょう……もう大丈夫そうだけど、念の為ね」

救急隊員が宗介くんに優しく言った。


 東京行きの新幹線に乗って、私はゆっくりとため息をついた。宗介くんのゲロが少しついたのか、私の背広は少し臭った。帰ったらクリーニングに出さなければいけない。

『宗介、おじちゃんに「ありがとう」って言いなさい!』

救急車に向かう途中で、宗介くんのお母さんは大きい声で言った。

『おじちゃんは、あなたの命の恩人なのよ!おじちゃんがいなかったら……あなたはママともう会えなかったのよ。お家に帰れなかったのよ!「ありがとう」は?』

『……ありがと』

宗介くんは恥ずかしそうにそう言うと、そっぽむいてしまった。恥ずかしがるくらいなら、もう大丈夫だろう。私はそう思って安心した。

サンドイッチの袋を持って、私は公園を後にした。母親たちは(あの瞬間だけは)私のことをキムタクとは思わないまでもかっこいいと思ったに違いないし、子供達だって仮面ライダーとは言わないまでも、私のことをヒーローと思ったに違いない……そう思うと、私は口元がだらしなく緩んだ。

母親たちは私を出発まで見送ってくれた。新幹線が見たい、と駄々をこねる子供がいたので、ベビーカーを押した集団が私も見送ってくれる……なんとも奇妙な光景がそこにはあった。

『これ、お土産にどうぞ』

母親の一人が、ブルーベリージャムを私に押し付けた。別の母親が味噌漬けにされた高級和牛の包みを私に渡した。駅の構内で買ったのだろう、と私は思った。

『このあたりの名産なんです。粒が大きくて美味しいですよ。お子様も奥様も喜ばれると思います』

 私は独身で、ジャムを喜ぶ妻も子供もいないのだが、『いや、私は独身なんで』など無粋なことは言わず、私は喜んでお礼を言って受け取った。味噌漬け肉は今晩のおかずにしよう、と思っていた。

 新幹線がホームに滑り込んできた。ベビーカーの子供たちは目をまんまるにして、新幹線を見つめていた。母親たちに『お見送りしていただいて、嬉しかったです』と言うと、『命の恩人ですから当たり前です』と返事が返ってきた。

 座席からホームを見ると、子供たちがベビーカーから手を振り、母親たちも手を振ってくれた。私も手を振り返した。新幹線に乗っている人が何事か、というような顔で私を見てすぐに視線をそらした。

 荷物を置いたり上着を脱いだりしてから、私はヒーローらしく、ゆったりとした態度で座席に深く腰掛けて、目を瞑った。東京まで眠るつもりだった。すごく満足した気持ちで、私は眠りにおちていった。

                 〈了〉

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