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小説『走れ!団塊ジュニア!』
「走れ!団塊ジュニア!」
野間 栄子
「榎本さん、脂肪肝です」
「はあ……」
ハンサムだけど額の禿げ上がった産業医はそんなことを言った。
「まあ……体重もね……少し気になる数値ですね。脂肪肝というのは……まあ、言ってみるならば」
言ってみるならば……なんなのだろう?
首を傾げる私に、産業医は丁寧に脂肪肝の説明をした。要するに脂肪肝とは肝臓がフォアグラみたいに栄養過多になっていることで、このままでは肝硬変になるかもしれないし、最悪肝臓がんになるかもしれない……最後に彼は優しい口調で締め括った。
「糖質を控えた食生活をして、お酒を控えて……運動することをおすすめします」
そんなことを言われたので、しばらく行っていないスポーツクラブに行ってみることにした。会社が福利厚生でお金を出してくれる、一回五百円で通えるところだ。
『あなたもフルマラソンを走ってみませんか?初心者でも大丈夫!8キロラン、毎週火曜日木曜日7時から』
そんなチラシがエレベーターホールに貼られていた。私は興味をそそられた。
ジム通いは週に二、三回行くようになっていた。私が入社したころは若い社員は上司が退社するまで帰ってはいけない、なんて慣行があったのだけど、令和の時代はノー残業デーもあるし、ライフアンドワークバランスが尊重されるそんな時代である。妻も子供もいない私であるが、ジムに通って健康維持をすることくらい許されるはずだ。
私はポスターをじっくり眺めた。ジムの会員は無料(法人会員も無料)、と書かれていた。フルマラソンか……私にはまだ無理だけど、そのうち走ってみたいな、なんて思っていた時だった。
「私もフル、走ってみたいんです」
「?」
いきなり女性に声をかけられて、私は死ぬほど驚いた。女性はかっちりとしたビジネススーツを着て、手には黒いビジネス鞄を持っていた。首からは占い師が使うような大きな緑色のガラス玉がついたペンダントをぶら下げて、両耳にはアフリカの王様がつけているような、耳がちぎれそうなほど大きな耳飾りをつけていた。年齢は私と同じくらいか?
「ごめんなさい」女性は微笑んだ。「ご興味あるんでしょう?」
「あ、いや……」
「ずっとポスターを見てらっしゃったから」
「ううう……あの」
私はモゴモゴとした意味のない唸り声を出した。私は昔から女性と話すのはちょっと苦手なのである。
「ええと……ごほん……は、走れたら良いな、と思いまして。私なんて……まだまだ、フルマラソンなんて……そんなそんなそんな!」
「でも、走りたいと思ってらっしゃるんでしょう?」
「ええ……まあ……その」
「じゃあ」女は言った。「私も申し込みますので、一緒にやりましょうよ」
「ええ?!」
「二人でやった方が、こういうのはサボらないですし、お互い負けないようにしっかり練習できますって」
「でも!そんな私は!」
「大丈夫!」
何が大丈夫なんだよ!と思ったけど、私と女性は連れ立ってスポーツジムのカウンターに並び、気がついたら私はランニング講座に申し込みをしていた。
『私は3キロくらいしか走れない脂肪肝の50男なんですけど……フルマラソンを走る講座なんて参加して大丈夫でしょうか?』
私がカウンターのムキムキの男性インストラクターに正直に質問するとムキムキインストラクターは言った。
「この講座はフルマラソンを走りたい人もいらっしゃいますけど、本当に運動経験のない方もいらっしゃいますよ。3キロ走れるんなら大丈夫だと思います」
そんなことを言われたので、私は安心した。ムキムキインストラクターは私にランニングシューズと走った距離が分かるランニングウォッチを買うように言った。速乾性のランニングウエァも必要だ、と彼は主張した。
「強制ではないんですけど……」ムキムキインストラクターは言った。「あったほうがいいと思います」
火曜日の7時に私は真新しいランニングシューズを履いて、真新しいランニングウォッチを手首に巻いて、真新しいウェアに身を包み、ジムの正面入り口にいた。
私の周りには若い女性の3人組と私よりも年齢の高そうな男性がいた。私をランニング講座に誘った女性は……欠席しているではないか!あいつ、サボりか!走る前から私はなんだか彼女に勝った気になった。
準備体操をして、まず私たちは歩くところから始めた。近くにランニング走路がある公園があるとかで、そこまではみんなで歩いた。
公園について走路に行くと、私たち以外には犬を連れた老夫婦がのんびりと散歩しているだけだった。私たちはゆっくりと走り始めた。
「まず走路を五周してください。ゆっくり走ります」若い男性のコーチが言った。
「一周何メートルですか?」誰かが質問した。
「一周400メートルです」
えー!2キロも!
私は不安だったが、コーチのスピードはゆっくりで、私はなんとか集団についていくことができた。若い女性3人組は楽しそうにしているし、私の横を走る年配の男性も『飴、食べます?』なんて言ってくれて、ありがたかった。飴は貰わなかったけど、飴ちゃん効果というのか、こういうのは親密さを感じられてとても良い、と私は思った。
「はい、次はスピードを上げて10周します……初心者の方は」コーチは私の顔を見て言った。「初心者の方は2キロを目指してください」
私たちは走り始めた。コーチに先導されて、女性3人組も年配の男性もあっという間に私を追い抜いて行った。運動能力の差を実感しながら私はゆっくり五周、すなわち2キロを走り、他の人たちはキッチリ10周すなわち4キロ走った。他の人よりも明らかに距離が少ないのに、私は集団の誰よりもハアハア言っていた。
「はい、次、最後でーす」コーチが言った。「ゆっくり5周してください。これで8キロです!頑張りましょう!」
最初はゆっくりなら走れるな、と思ったけれど……最後の一周は死ぬかと思った。走り終わった女性3人組が応援してくれて、なんだか恥ずかしかった。
「どうでしたか?」
走りおわって、芝生の上でアクエリアスを飲んでいるとコーチが私に聞いてきた。
「走るなんて……高校以来ですよ」私は答えた。「自分にはとても似つかわしくないことをしているので……なんで私はこんなことをしているのかな、って思ってしまいました」
「それでも、ええと、6キロは走りましたよね?」コーチは言った。「こんな感じで走るのを続けたら、フルマラソンなんてすぐですよ。来年には走れるようになります」
次の日は……予想はしていたけれど筋肉痛だった。会社までの道のりを私はヨロヨロと歩いた。上司が『榎本君、体調大丈夫?』と尋ねたので、私は『最近ジムに行き始めて』と答えた。
「どうせすぐにやめるよ」上司はそう言って鼻でフフンと笑った。「行かなきゃいいのに」
次の練習にも女性は来なかった。彼女が来たのは五回目の練習の時だった。
「出張でニューヨークに行ってたんです」
「はあ」
アメリカ出張か。カッコいいな、と私は思った。
「これ、お土産です」
女性は私に小袋を手渡した。MOMAと茶色の文字でプリントされている小袋だった。
「自由の女神マグネットです。冷蔵庫にでも貼ってください」
「はあ……」
相変わらず私は他の人よりも遅く、初心者なので距離も短いのだが、女性は(初めての練習なのに!)他の参加者のペースについてゆくのは苦もないようだった。
「この後、ご飯でも食べませんか?」女性が私に言った。「誘ったのに一人にしちゃって申し訳ないなって……」
「いえいえいえ……」
「この後予定ありますか?」
「な、ないです……」
女性に食事に誘われるなんてことは人生で一度もなかったので、私は不安ながらも少しドキドキした気持ちだった。
私たちが向かったのはジムの近くのなんの変哲もないファミレスだった。向かい合わせでテーブルに座ると、
「何か飲まれます?」
「あ、私は……結構です」
「そうですか。すみません!」
女はウェイトレスを呼んだ。よく通る声だった。
「ハイボール一つ、ウーロン茶でいいですか?」
「は、はい!」
「それからウーロン茶一つ」女性は言った。「私はハンバーグ定食にします。ライスと……サラダもつけて」
あなたは?と言うような目で見られたので、私は慌てて自分の分を注文した。私はチキン南蛮定食にした。
「私、森山市子と申します」
女性は名刺をくれた。私は目を剥いた。名刺には『△△商事副社長執行取締役森山市子』と書かれていた!△△商事は日本三大商社の一つである。私は慌てて自分の名刺を取り出した。
「すみません、別に……名乗るほどのものじゃありませんが……」
私は潰れそうな○○興産という会社の平社員でしかないのだ。私はひたすら身を縮める思いだった。
「榎本さんとおっしゃるのね」森山さんはそう言って笑った。「お名前も知らずに……強引にナンパしてごめんなさい」
「ナンパ……」
確かにそう言えないこともないな、と私は思った。ちょうどハイボールとウーロン茶が来たので私たちは乾杯した。
「コーチが言っていた10キロマラソンの大会、でますか?」森山さんが尋ねた。
「そんな……まだ10キロなんて走ったことありませんよ!」私は慌てて言った。「大会なんてそんな、そんな」
「お仕事お忙しいんでしょう?」会話が途切れたので、そんなことを私は彼女に言った。
「まあ、出張は多いですね」森山さんはそんなことを言った。「私、弁護士でして」
「?」
「今、女性活用!とかダイバーシティ!ってうるさいでしょう?」森山さんはハンバーグを食べながら言った。
「お飾りの女性がどこの企業でも欲しいのね。だから、女性弁護士とか女性大学教授とか……そんなのを外から引っ張ってくるんですよ。自分の会社で女性社員を役員ができるように育ててないから」
「はあ」
だから弁護士なんだけど、企業の役員をしているのだ、と森山さんは説明した。
「私が女子大生だった時は……就職市場は、女子大生にあんまり開かれてなかったんです。」
「……」
「私、いわゆる団塊ジュニアなんですけど、均等法が始まってちょっと経ったくらいの時に就職活動したのね。バブルが弾けて日本中が大変だった時」
森山さんはハイボールをグビグビ飲みながら言った。均等法?ああ……女性も平等に働こうねって法律か、と私は考えていた。森山さんは続けた。
「でも、全然均等なんかじゃなかった。大学の同じクラスの男の子は……今と違って、インターネットとかで就職活動なんてしないでしょう?郵便が自宅に送られてくるのね、企業から」
「ああ、そうでしたね」
「男の子の家にはダンボールいっぱいに企業の案内がくるの。それで、一流企業にどんどん内定をもらってね。でも女の子はそうじゃなかった」
「えーと……あの、そ、総合職とか……大きな企業なら、そういう道もあったんじゃないですか?」
「うーん」森山さんは変な笑いを浮かべた。「就職活動ってOB訪問とかするじゃないですか。大学の先輩に……5つ上の男の先輩だったんですけど、話を聞きに行ったら『この会社も他の会社も本心では女は採りたくないんだ。おっぱいをぶらんぶらんさせて、仕事なんてできるの?』って言われましたね」
「……」
「まあ、あらゆる意味ですごい時代だったんですよ……やっと入った会社で私は徹底的に潰されました。東大卒の女っていうだけで、毎日信じられないくらい長く残業させられました。朝の7時から終電まで働くのが当たり前でね……仕事のミスは『お前東大出てるくせに使えねえな』ってみんなの前で言われるんです。椅子に精子っていうんですか、ぶっかけられたりね……ものも盗まれましたよ」
「……」
「極め付けは『おい、森山脱げ!』って言われまして。取引先を接待していたんですけど『東大出てるんですよ、こいつ。東大卒のおっぱい見たくないですか?』って上司がね、取引先に言うんです」
「いじめじゃないですか!」
「そうですね。断ったら『ノリが悪いな。これだから東大卒は』ですよ」
「……」
「頑張って5年は続けたんですけど、ある日どうしても体が動かなくなったんです。布団から起き上がるどころか、指一本上がらなくなって……鬱って言われました。それで会社を辞めましてね。まあ、司法試験くらいしか……道がなかったんです」
「……」
司法試験が残された道、と言うのもかっこいいなあ、と私は思ったがそんなことを口にするのは躊躇われた。
「退職金を全部使って司法試験を受けて、なんとか合格できました。ある事務所で弁護士として数年働いて、その後アメリカの大学に行ってアメリカの弁護士の資格を取りました」
「すごいなあ……」
「その後、イギリスの弁護士事務所に転職しました。色々な案件を担当して、楽しいこともあったし、嫌なこともありました。人種差別されることもあったし、私自身が人種差別をすることもありました」
「……」
「森山さん何年生まれですか?」
「私?私は昭和48年生まれ。榎本さんは?同じくらいでしょ」
「はい、私は昭和49年生まれです」
「あら、年下。中学だったら『榎本、ジュース買ってこい』って言えたわね」
「ダメです、私たち同学年ですよ!私、2月生まれだから」
「あら、同期」森山さんは笑った。
「私はそんないい大学出てないし、資格も持ってないです」私はチキン南蛮を食べながらそんなことを言った。「……森山さんの受けたセクハラとかパワハラとか……そりゃ森山さんは東大出てらっしゃるし、弁護士だし、私よりも偉いと思うんですけど……でも、どんなにあなたが偉くてもそんな目にあうなんて酷いと思いました」
「……」
「そりゃ、私だって東大卒の女の人に嫉妬すると思うんです!自分より仕事ができる人って……羨ましいんですよ、男でも女でも。もちろん『死ね』とかそんな酷いことは思わないけど、『タンスの角に小指ぶつけろ』くらいはね、思うんです」
「ははは」
「でも、森山さんのやられたことは……タンスどころじゃない。そんなこと、あってはならない……あってはならないんだ!」
「……」
「……うう、ぐすっ……」
「あの?……榎本さん、あなた……あなた、泣いてるの?」
「す、すみません……ぐすぐす……」
私はハンカチを尻ポケットから取り出して顔を覆った。森山さんの話を聞いて、私の心はぐちゃぐちゃだった。粗末に扱っていい人間なんてこの世に一人もいないのに、一昔前の私たちの国では他人を粗末に扱うことがまかり通っていた。そんなことあってはならないのに。
私はしばらく泣いていた。森山さんはハイボールを飲みながら、黙って私に付き合ってくれた。
「すみません」
「いいのよ」森山さんは笑った。「私、男の人が泣くのを初めて見たような気がする」
「……」
彼女の周りにいるような……弁護士とか一流企業のサラリーマンは感情を抑制する技術に長けている人が多いのだろう。自分のあまりのカッコ悪さに私はしばらく俯いてしまった。
私たちはファミレスを出て、駅に向かって歩いていた。夜の9時を少し回った頃で、大学生と思われる集団がお揃いのジャージを着て通り過ぎて行った。森山さんが言った。
「私、今……△△商事ってところで執行役員をやってるんですけど」
「ああ、名刺に」
「私が新卒で入った会社、△△商事なんですよ……」
「え?」
「私をいじめていた上司、私の椅子に汚い精子をぶっかけた同期がね、まだ会社にいるんです……まあ、そういう人って残るんですよ。うまくやって、出世してたりするんです」
「……」
「もう、私は新卒の若い女の子じゃないんですよ。十分彼らに対抗できるだけの力があるし、私を応援してくれる人たちもいる。社会の風向きもね、変わってきているんです」
「……」
「榎本さん」森山さんは言った。「私、マラソンって好きなんです。マラソンって苦しいじゃないですか?」
「ええ。私なんて6キロしか走れないけど、苦しいって思いますよ」
「苦しいけど、辛いけど……マラソンってゴールがあるんですよ。終わりがある」
「そうですね」
「私は走ります」
「……」
「苦しいけど……どんなゴールになるかわかりませんけど……私は走ります」
「……」
駅の改札口で私たちは別れた。
森山さんは次の週の練習には来なかった。その次の週も。忙しいのかな、と私は思っていた。彼女のことを思い出すたびに、私は黙々と練習に打ち込んだ。
数ヶ月後、私はランニング講座の他の人たちと同じように8キロ走れるようになった。コーチは『怪我には気をつけてくださいね』などと言っていたけれど、私の進歩に驚いているようだった。
結局、私は10キロマラソン大会(××区市民マラソン大会)に申し込んだ。10キロはまだ走ったことはなかったけれど、8キロは走れるようになった。体重も3キロほど減ったし、次の健康診断ではあの額の禿げ上がった産業医も私のことを見直すに違いない、と私は考えていた。
新聞を読むと、△△商事の事件が大きく報道されていた。よくある政治家への不正献金の事件なのだけど、女性社員をコンパニオンがわりにしたということが問題になっていた。
女性社員が勤務時間外に政治家の泊まる都内の高級ホテルにワインを会社命令で『お届けに上がる』のだが、女子社員の訴えではワインを届けた時に強引にホテルの室内に連れ込まれ、そのまま強姦されたという。
会社は女子社員に被害が及ぶことを十分予測できたのではないか、と抗議の声が巻き起こり、その声は台風のように激しく大きくなった。
また、別の女性社員は政治家への接待の宴会でバニーガールの格好をするように上司に言われ、それを断ると『東大卒の女はノリが悪い』ということで仕事をふられなくなり不利益を受けた……この件も大きく報道された。 そして何人もの女子社員が同様の被害を訴えていた。多くの人間が退職することになり、その大部分は私と同世代か少し年上の男性だった。
△△商事の株価は下がり、株主たちが集団で訴訟をおこすのではないか、と言われていた。役員たちの個人資産が差し押さえられる可能性や自己破産する可能性が面白おかしく取り沙汰されていた。私は森山さんのことを陰ながら心配していた。
「榎本さん!」
「森山さん!」
マラソンの受付を済ませて、芝生の上でランニング講座の面々と準備体操をしていると、森山さんが現れた。少し痩せたようだけれど、今日も占い師が使いそうな大きな宝石がついたペンダントを下げて、アフリカの王様が身につけそうな大きな耳飾りをしていた。
「10キロ出るの?この前は出ないって言ってたのに」
「あれから」私は得意そうに言った。「真面目に練習して、8キロ走れるようになったんですよ。ですから……」
「すごいじゃないですか!」森山さんは自分のことのように喜んでくれた。
「まあ、タイムは遅いと思いますが」
「いいのよ!スタート地点に立つだけで偉いの!立つだけで偉いのよ、あなた」
「へへへ」
「ゴールで待ってます」森山さんは私の肩をポンと叩いた。「頑張って!走れ、団塊ジュニア!」
「はい!走ります、団塊ジュニア!」
「頑張って」
もう一度、森山さんは私を励まして行ってしまった。私はランニングシューズの紐を結び直した。
『10キロマラソンに出場する選手の方はお集まりください』
というアナウンスが聞こえた。
コーチが『はい、自分のペースで走ってきてください』と私たちを励ましてくれた。ランニング講座の面々は……私と年配の男性と女性3人組は頷いた。
見上げると薄い雲がかかっている空から太陽の光が降り注いで、私はサングラスを持ってくればよかったな、と思った。スタートラインの後ろの方で待っていると、スタートの合図が聞こえてきて、心の準備が整わぬまま、私は人の波に乗って動き出していた。ゆっくりと、そして私は走り始めた。どんなゴールになるかわからないけれど、私は誠実に走っていこうと、それだけを考えていた。
〈了〉