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豊かさについての考察2

前回の記事はこちらから☟
https://note.com/nomadyoginaoki/n/nf8fd9cd1a259

別の視点からもみておきたい。

物理的戦争や飢餓のない、「平和とされる」この国に住む僕達は豊かなのか?
そんな先進国日本だが、若年層(15~34歳)の死因1位が自殺となっているのはG7の中では日本だけなのも事実。

今回は少しセンシティブな内容になるかもしれないが、命については、前職の仕事柄、最前線で向き合ってきた身でもあるため記させてほしい。生半可な気持ちでは書いていないということを先に伝えておきたい。

日本の歴史を見てみれば「切腹」も自殺なのだが、時代劇で表現されたり、海外からは「harakiri」として武士の精神力の高さを尊重されたり、今ではLINEスタンプでかわいく「謝罪」の一つとして描かれるものまである。
この視点からは、自死に対してネガティブな印象ではないように見える。死をもって償うことが責任を取るという行為の単なる延長線上にある。真面目で、レールから外れることに罪悪感を持つ日本人にとっての最上級の責任の取り方として、時代が変わった現代でも取り入れられているのだろうか…。
日本では、この文化があったことによって「死」への心理的ハードルを下げているのかもしれないと僕は思う。

しかし、ハードルを下げる要因となっていたとしても、実際のところは論理的に判断をできてはいるわけではないだろう。
ヨガの世界感では、五つあるとされる煩悩(クレーシャ)の一つに、死への恐怖(アビニヴェーシャ)があり、輪廻思想を持つヨガでさえ、「死」に対してハードルがあるように捉えることができる。これは、恐怖心ではなくてハードル。恐怖心が生まれ死へのハードルを高くすることは、ある意味生きる力になっていくのだ。
それは一方で、命に執着することにもなっている。
生存維持が僕達の一番の種の目的とするのであれば、恐怖心が死なないようにというハードルを形成しているのではないだろうか。

ここから考えていきたいことは宗教観だ。
僕達日本人は無宗教なのだろうか。
2年ほど前、僕の祖父が大往生を遂げた。葬儀は仏式だった。では、そこに参列した僕は仏教徒?
しかし、初詣に行く。それなら神道? 結婚式は多くの人が教会で牧師とともに誓う。その人達はキリスト教徒? そして、ヨガをしているならヒンドゥー教徒?

結局のところ、心の底から信じていないため、宗教は形骸化・希薄化し、問いの答えは「無宗教」、あるいは「無関心」となるのではないだろうか。
では、何を信じるのか?あるいは信じる必要があるのか?

僕は前から、日本の自殺率の高さは無宗教感からくるものではないかと推測をしている。何もかもなくなった際でも、何かを信じることで、死に至る前のセーフティーネットとなると考えているからだ。

今回、考察を続ける中で、少し古いがWHOの興味深いデータに出合った。そのデータによると、無宗教とみなされる国のほうが圧倒的に自殺率が高いそうだ。また、無宗教の次に、輪廻思想を持つ宗教を信じる人が多い国がランクされることも興味深い。

では信仰心がない僕達が、心の底から信じられるものが何かあるのか?
そんな日本人にマッチする考え方が、ヨガにあると信じている。それは宗教ではなく、サーンキャヨーガの、人格神を持たない哲学だ。
ヨガを実践されている方にはなじみ深いだろうが、サーンキャヨーガの教科書に『ヨーガスートラ』がある。この本には「神」という言葉がたびたび登場する。有名なところでは、勧戒/ニヤマの中にあるイーシュワラプラニダーナ/自存神への祈願。
しかし、信仰心がない人に、いきなり「神」と言われてもピンとこないかもしれない。

では、ここでは何を「神」といっているのか。サーンキャヨーガでは、プルシャ/真我という概念がある。平たい言葉で表現するのであれば、プルシャ=「本当の自分」であり、それは人智を超えた尊い存在だ。
ということは「自存神」とは、自分の中にある「本当の自分」=「神」ということになると思う。つまりサーンキャヨーガは、本当の自分を信じて生きていく思想だと僕は解釈する。(1つの側面として。)
たとえ社会的に信用を失おうと、人との関係が破綻しようと、無宗教者であろうと「本当の自分を信じて生きていれば大丈夫」という思想を、より強く持つ視点を与えてくれているのだ。

サスティナブルという言葉が浸透してきて、社会や環境など外側への思いを巡らせる機会は多くなっているが、人が生きるという点においては、「心」や「命」といった内側へ意識を向けていく、内側のサスティナブル=「持続可能な精神活動」にも注目するべきなのかもしれない。

Photo by Ryuhei Hata

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