人生の八分の五について/略歴
父が仕事で関東にいたとき、神奈川県の病院で生まれた。生後一か月で両親祖父母の故郷である愛知県の渥美半島に引っ越した。家族全員が漁師になり、私は海や田んぼの中で育った。高校卒業後、名古屋の大学へ入学するのを機に一人暮らしをはじめた。二年の夏までは体育会でテニスに没頭した。しかし、遊びたくなって退部した。それからいろんなことに目覚め、異常なほどアルバイトにも勤しんだ。フランス料理店のギャルソン、花屋の店員、バーテンダー、テニスのコーチをかけ持ちし、平均睡眠時間は二、三時間だった。卒業後はフラワーデザイナーを目指して上京し、渋谷の花屋で修行した。しかし、二年目に社長と胸ぐらを掴み合って退職した。以後、コピーライター、タクシードライバー、ジープを改造して車上生活、パトロンを得て流浪しながら作文生活、銀月アパートメントで京都の冬を暖房なしで越す隠居生活、赤坂の雑居ビルの屋上にあるイナバの物置に暮らす芸術振興団体の事務局長、タイの大学の東アジア研究所に勤める日本語講師、日本に帰り元教え子かつ元彼女が住む国際学生宿舎に忍び込んでの居候生活、浮浪者を目指して貯金を使い果たすために列島縦断、浮浪者を諦めてまたタクシー運転手、画家を目指して小田原に蟄居、諦めてアマゾンの倉庫のオペレーション、中銀カプセルタワービルに棲みながら有名企業の社長付き運転手、日記作家を目指して西荻で居候生活、諦めて老人ホームの介護士、退職して西新宿で二か月間ビジネスホテル暮らし、富士五湖至近の工場で産業用ロボットを三か月間作り、西表島のホテルでリゾートバイトをし、居心地がよかったので社員になり、しかし、付き合いはじめた三十歳年下の恋人の異動に合わせて退職し、二〇二三年四月、彼女が転勤した八ヶ岳のホテルでまたリゾートバイトをはじめた。同年十月、十日間の瞑想合宿を経て一瞬聖者になった。二〇二四年二月、二十年のブランクを経てテニスを再開した。より多くテニスをするために同年六月転職。小さな製麺所で働きはじめたが、五か月後の十一月初旬、役員に逆らって退職した。現在無職。余命は約三十年の予定で、今後はなるべく自然に生きるつもり。