流動化する社会と個人の自由①〜Doer礼賛の功罪について〜
近年、ビジネスの領域で「働き方改革」「オープンイノベーション」やたらそういう言葉が聞かれるようになった。
これらは本質的には目的的な概念なので意味があると思っているが、社会に蔓延しているメッセージは分解すると、
「行動しろ」「ゾーンを抜け出せ」「他者と交われ」
とかになるだろう。これらは、あらゆる様相において固定に偏っていた日本社会に流動化を促す試みにおいては意義のある動きだったと思う。しかし、それも上手く機能している事例も出た半分、言葉だけが一人歩きしているケースも目立つようになってきた。
バズワードの自己目的化という当たり前のような末路を辿っているように思う。本質的なものが流行化すると非本質的に扱われるという普遍的ジレンマはデモクラシーの限界を露呈しているのだろうか。しかし、これは今回の本題とはズレるので言及はしないでおく。
「Doerであれ」「行動にこそ価値がある」
このような言葉は時に社会の潤滑油になるが、見えない暴力(フーコーの生権力に近い、以下参考までに)
になったりする。結果の平等ではなく、機会の平等を説き続ける自由主義社会は時に自己責任論的な重荷として身に降りかかる。「今いるコンフォートゾーンよりもこちら側の方が幸せになれるからこっちにきなよ」というお誘いは、確かに「そっち側にいった方が幸せになれそうな感じがするような情報」が飛び交う社会では、それなりに正しく受容されやすい。
実質、その行動って毎日Tweetするとか、ブログ書くとかそんなコストかからないものばかりだから、誰でもできそうだし論理的にも正当化しやすい。誰でもできることをなんでやらないのかって。論理的に可能なことは(強要しているつもりがなくても)正当化しがちで正当化できるものは強要してしまう傾向にある。
少し、まとめると認識と行動までのギャップが少なくなった限りにおいて自由主義的な自己責任論が正当化しやすくなったのが最近の風潮だと思っている。(自己責任論については以下を参考までに)
少し時代を遡れば、ネットバブルの頃などは大企業などに勤めている人達が、そこを飛び出して起業して失敗した人を安定を手放して行動した自分が悪いのだ、自己責任だから仕方ないと見離すような言動がデフォルトだったのだ。
このことは「行動しないとヤバイよ」ということと「行動して失敗したのだから自己責任だよ」ということは個人の自由の問題に対して自己責任ロジックで詰めているという点では構造的に相似形なのである。
行動を促すこと自体は、個人的に悪いことではないと思うし、むしろ先ほども述べたが固定化した日本社会においては良いことだと思っている。
ただ、その根底に上記で述べたような「自己責任ロジック」が横たわっていたとしたら、日本は自由の本質を問わないまま20~30年が過ぎてしまったことになる。
私は、流動的で新陳代謝の良い社会を作ることと個人の自由をどう扱うかは別の問題であり、そこを一緒くたに考えようとしないことが重要だと思っている。キャッシュレス社会も副業解禁の流れも大賛成だが、だからといって、それが個人の自由についてどうこう言えるものでは無いと思っている。
もう一度言う、流動的な社会をつくることと、個人の自由は問題系が異なるのだ。これは非常に繊細だけど気をつけないといけないところである。
流動化することと自由の暴力は似て非なるものであり、ここをしっかり調整するようなシステムが必要なのである。次世代の価値観は自然にこのシステムを代替するようになると思う。
「客観的に見たら行動してるけど、本人は全くそういう意識が無いし、そんなことに興味が無い人達もいる。恐らくそういう人たちが次世代のアイデンティティであり、上記の問題をサラッと解決してくれるはずである。
2020年までは、まだこの勢いは過熱し続けるだろう。しかし、「デフォルト化」する兆しが私にはうっすら見えてきている。「行動しろ」「本当にしたいことをしろ」がTLで溢れてきて、声高に唱えられるのはここ数年の現象だと思っている。次なるアイデンティティがそれを乗り越えていく。
メモ程度の雑な走り書きになった。「流動化する社会と個人の自由」についてはまだ書くことが山ほどある。
2019年、都度都度アップデートしていく。