私たちに見えている世界は、ことばという被膜に覆われている:大規模言語モデルの時代にこそ、言語への構えを
向こうから与えられることばは、脱構築さえ難しい
こうした「国益」などという国家主義的な性質の濃厚な単語を、逆の立場から用いるといった際にも、ことばに対する〈構え〉は重要である。国家権力の好んで用いるこうしたことばを、逆手にとったつもりで、反権力の立場から利用するといったことが、しばしば行われている。しかしながら政治の言語にあってはそうしたことばの脱構築などまず成功しない。政治とは論争の当事者だけではなく、つまり当該の言語場でそのことばを用いている人々だけではなく、そこに立ち会っていない、多くの人々を巻き込むことが、決定的な力となる領野だからである。
国会討論でもテレビ討論でもどこでもいい、「それは国益に反しますよ、総理」などと追及したつもりになっても、「国益」という概念を認める点では、そしてさらにそれが人々にとって重要なものと位置づけてしまう点では、国家主義の意志と同一であり、してやったりどころか、当該の言語場でのみのほとんど自己満足に陥りながら、「国益」ということばを人々の間でどんどんキーワード化してしまうことに手を貸す。「国益」ということばが複製され、同じ日に、翌日に、そして幾日も経ってからでさえ、拡散される。「それはあなたの言う国益にも反してますよ」などということばで、相手の自己矛盾を暴いたつもりになっても、「国益」ということばを連呼し、その重要性に加重する点では、やはり罪深い。そこで用いた「国益」ということばが、SNSで、新聞で、ニュースで、次々に新たなる言語場において増幅する。政治のことばはこの点で裁判のことばとも違う。その場に比較的閉じられ易い裁判の言語場のことばに比べ、政治のことばは遙かに拡散され易いことばなのだ。かくして「国益」ということばが、人々の記憶の中にあたかもとても大切なもののごとく、装塡されていく。そう、「国益」というものがあるのだ、「国益」ってものを考えないと、やっぱよその国よりもうちらの生活ってものもあるよね――装塡されたことばはやがて排外主義的な言語場にあって恐ろしい弾丸となって放たれることになる。ことばを見据えるとは、いまここの言語場を見据えるだけではなく、その言語場の外の言語外現実や、当該の言語場に連なって出現し得る言語場にもまた、思いを致すということでなければならない。
与えられたことばは、かくのごとくしばしばとても危ない。そのことばを〈かたち〉にして繰り返すこと自体が、既にもう危ないのである。批判するには、相手のことばに乗って語るのではなく、大切なところは自分のことばを構築するのがいい。相手が「国益」を語るなら、その「国」とは何か、それに私たち人々が皆入っているのか、といった具合に、ことばそれ自体を問い、ことばそれ自体に込められた思想を、突き崩してゆかねばならない。
それは「将軍様」ではない、「将軍」なのだ――支配される翻訳語
あるいはまたこんな例を見てみよう。「将軍様の国」などという揶揄のことばがある。極端な個人崇拝の体制を批判したつもりで、用いられていることが多い。これを言語の観点から見ると、恐ろしいことが見えて来る。韓国語=朝鮮語の「将軍님」(チャングンニム)ということばを、日本語の「将軍様」と訳して用いているつもりなのである。だが「将軍님」を「将軍様」と訳すのは、まず、誤訳である。通常なら「将軍」と訳さねばならない。
「将軍」の後ろについている「ニム」は尊敬語を造る接尾辞である。韓国語=朝鮮語においては、尊敬語には無条件につく。例えば、日本語で言う「先生」は、「先生ニム」(ソンセンニム)。○○先生を「ニム」なしで「○○先生」と呼べるのは、その先生の直接の指導教員であった大先生、あるいは完全に目下扱いしても構わないような立場の人物、または歴史上の偉人を公式の場で呼称するときなどに限られるので、事実上、言語生活のほとんどの場合に「先生」は「先生ニム」という〈かたち〉で用いられる。韓国の学園ドラマを見ても、面白い。昭和の日本語ドラマであれば「お、やべ、先公来たぜ」とでも言いそうな場面である。高校生の悪童たちが、ごく自然に言う、もちろん揶揄なんかなしで――야、선생님 오셨어(ヤ、ソンセンニム、オショッソ)。こんなところまで「先生ニム」と、尊敬語になっている。おまけに「来た」という動詞まで尊敬形である。「来られたぞ」。財閥の「会長」であれ、「課長」であれ、「大使」であれ、タクシーの運転士(技師)であれ、「客」であれ、およそつけることができる名詞であれば、「ニム」は何にでもつく。現実の様子は詳しくないので、映画を例にして恐縮だが、日本の極道映画なら「おやっさん」とか「親父」などとなるところも、韓国の極道映画では「兄ニム」(ヒョンニム)である。
さて辞書を引くと、「ニム」に相当する日本語がないものだから、似たようなものを探して、とりあえず「様」などと訳語が書いてある。実際の用法を見れば明らかなように、あれもこれも一知半解で「ニム」=「様」と訳したのでは、ほとんどギャグにしかならない。「将軍님」は「将軍様」と言っているわけではない。「お代官様おねげえでございますだ」などというような具合に「将軍様」と言っているのでは、決してない。「将軍」と言っているのである。格調高い文体であれば、なおさらのこと、注意せねばならない。日本語であれば、敬意を込めて「我らが将軍の旗を高く掲げよ」などとなるのであって、こんな文体で「将軍様」では冗談にしかならない。この点で、日本語に訳されている「将軍님」のほとんどは誤訳である。素晴らしい映画の一場面などでもこうした誤訳が現れたりするのは、残念なことである。「将軍様」はそれほど人々の頭脳に刻み込まれている。もし個人崇拝などといった体制や思想を真剣に批判したければ、理性的なことばで〈かたち〉にして、批判せねばならない。揶揄や罵倒のことばは、しばしば諸刃の剣にさえもなりえず、振りかざした途端に、別の誰かに傷を負わせてしまう。
従って、例えば自国の権力者を批判するのに、「それではどこぞの将軍様の国と変わらないじゃないですか」などと言うのでは、他国へのヘイトスピーチをしながら、自国の権力者の批判をするようなものである。もちろんその言語場における批判の機能など崩壊する。残るのは「将軍様なんて人々に呼ばせているどこぞの国は、とんでもない国だ。そんな呼び方をしている人たちも人たちだ」などという差別思想だけである。記憶の中で差別思想は増幅する。また次々に生まれる新たな言語場で、「将軍様」の同じような用法が重ね書きされ、私たちの中で差別の思想が肥大化してゆく――
ここで疑問に思われるかも知れない。しかしいくら外国語と言っても、大新聞や放送はことばについてのそんな基本的なことも知らないのかと。大新聞や放送といった言論はもちろん知っている。よく知っている。解っていて、「将軍様」と連呼しているのだ。完全なマニピュレーション、ことばによる印象操作、思想操作である。忘れてはならないのだが、言論ジャーナリズムの中で苦闘している記者たちも、もちろん存在する。しかし大新聞や放送の砦は「将軍様」を連呼する思想で、塗り固められているのだと、言わざるを得ない。翻訳されることばも、しばしばこのように支配、制御され、巧妙なやりかたで私たちに特定のイデオロギーが日々刷り込まれている。私たちの思想も感性もぼろぼろになるまでに、侵されるのである。
ことばに対する構えなしに、私たちは〈自由〉になどなれない
こうして少し見ただけでも解るように、世の中と私たちとのインターフェイス=界面について思いを致すなら、政治的なことがらであれ、社会的なことがらであれ、文化的なことがらであれ、地球上で進行している事態と、私たちとの間で界面=インターフェイスをなす実体は、何よりもまずことばなのである。世に起こっていることは、ただ起こっているのではない。それはいつもことばという界面イデオロギー装置を通して、起こっているのである。世界と私たちの間にはいつも膨大な量のことばが差し挟まれている。私たちの言語的対象世界のうちに敵を造形するのも、仲間を造形するのも、敵と味方を見誤らせるのも、ことばが鍵となっている。差別したり、敵視する対象を、ことばがアクティヴェイトする。ことばによって繰り返し造られる敵は、私たちのうちに長く棲息する。そう、ことばに対する構えなしに、私たちは〈自由〉になどなれない。
私たちに見えている世界は、ことばという被膜に覆われている
こう言い換えてもよい。世界はことばという被膜に覆われている。世に起こっていることは、私たちにそのまま見えているわけではない。ことばという被膜濾しに見えているのである。決して混乱してはならない。これは言語による世界の分節の仕方がどうの、などといった、斜に構えて世界を眺めることができるような、そんなお行儀の良い質の問題ではない。
銃を持った警官の膝に組みしだかれて、人が亡くなる。その事態はただ見えているのではない。ことばという被膜濾しに見えているのである。ことばという被膜は、私たちを分断する。ある人々は殺した人の立場に立ち、ある人々は、亡くなった人に胸を焦がし、そしてある人々は、ほとんど何も思わない。それら三つの反応のしかたの間には無数のヴァリアントが現れ得るであろう。それらを分かつ重要な手掛かりは、ことばというインターフェイスである。人が人を殺(あや)めるなどといった映像でさえ、その映像を覆っていることばという被膜は、理性も価値も、さらには善悪でさえ、位置づけにかかるのである。
一にも二にも、私たちに起こっていることは、全てことばという被膜に覆われている。事態を前にする悲しみも怒りも、そして自分自身についての歯がゆさや怒りといったものさえも、〈かたち〉になったことばたちが手掛かりである。Black lives matterということばはおそらく地球上の多くの人々を覚醒したであろう。
その言語場に実現していることばの〈かたち〉とはどのようなものなのか? 既に述べたように、そのことばことばは「情報」といった無機的なアイテムなどではなく、常に質量や質感に満ちている。そしてしばしばイデオロギーといった動的な力学さえも備えている。さらには私たちが思考する暇を、いささかも与えぬほどの速度戦を強いてくる。少し考えてみよう、などといった大切な時間が、速度戦の前で奪われる。そんな刹那刹那に私たちが意味を造形し、思想を構築する。言語は危険なものなのだ。私たちは考えずに、勝手に考えを造らされている。ことばを問い、ことばを糺すことなしには、言語ほど危うさに満ちたものはない。私たちの社会は、言語の危険性という点において、先の小学校の社会科の教室の構図を遙かに凌駕する危うさに満ちている。ことばを問うこともなく、ことばの前で武装解除することの恐ろしさは、いくら強調しても、し過ぎることはない。
空虚な言語至上主義、相対主義もまた危ない
なお、ここでそう、ことばが全てだ、とか、ことばが全てを決定しているのだ、とか、甚だしくは、ことばがなければ世界がない、などといった、観念的な言語至上主義に陥ってはならない。それはニヒリズムに通底する、おめでたい武装解除の一形態である。もちろん逆に、全てはことばのせいなのだから、ことばがもたらす構造のせいなのだから、我々に責任はない、などといった空虚な相対主義もいけない。それらの思考は言語外現実、言語内のシステム、言語的対象世界の著しい混同でもある。ソシュール言語学の巨大な影響下にある構造主義思想、ポスト構造主義思想の流れには、またそれらについての解説書の類いにはとりわけ警戒が必要である。
世界はことばという被膜で覆われていると言った。ただしそれはどこまでも被膜なのであって、向こう側から物理的に振り下ろされる棍棒や、物理的に飛んで来る弾丸を、跳ね返してくれたりはしない。ことばが全てなどでは決してないことを慮るには、このように思いを致すだけで充分である。棍棒や弾丸は問答無用で、即ちことばの潰えた僅かな瞬間に、やって来る。
人が生きる世界には、ことばが失われる極限状態といったものも、いくらでも存在する。アウシュビッツなどという時空間を考えればよい。重要なのは、ことばさえも実現しない、そうした極限状態に至る、社会の変遷の長い過程を見るなら、その過程のありとあらゆるところには、やはりことばが満ちていたのだということにある。差別も抑圧も、一朝一夕にできあがりはしない。満ち溢れることばことばことばが、差別を保護し、培い、抑圧を反復し、組み上げてきたのである。
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