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ハン・ガン『흰』(문학동네)『すべての、白いものたちの』(斎藤真理子訳:河出書房新社)の題名の何が凄いのか?

ハン・ガン(한강)先生の作品に『흰』[ヒン](白き)(2016年)という作品があります.そしてこの日本語訳(2018年)を斎藤真理子先生は『すべての、白いものたちの』と訳しておられます.韓国語も日本語も,その題名だけでも戦慄を禁じ得ません.いったいこの題名の何が凄いのか? 言語学的な観点から少しだけ.

まず「흰」[ヒン]は「희다」[ヒダ](白い)という形容詞の連体形という形です.即ち,「白い~」というように後続する体言を修飾する形です.そしてこの題名には後続して現れるべき体言が示されていません.「白い…何なの?」となるわけです.その点で非常に特異な題名の形です.

日本語では連体形と終止形がしばしば同じ形になります.「白い服」も「服が白い」も同じく「白い」という形になりますね.しかし韓国語では連体形と終止形は全ての用言(形容詞や動詞のグループで,文の述語になる単語群です.他に存在詞と指定詞という品詞があります)において必ず形が異なります.要するに連体形は見ただけで連体形だということが解ります.
韓国語母語話者のみならず,韓国語をある程度知る人であれば,「흰」[ヒン]が連体形で終わっていることが一瞬で解ります.そして後ろに来るはずの体言がないことにも一瞬で「おや?」と気づきます.

上では「白き」と仮に訳しておきましたが,「白い(~)」という連体形で終わっている題名なのです.
それではこれを〈日本語ではどう訳すか?〉という恐ろしい問いが立つわけです.私くらいでは『白き』とか『白き。』,あるいは絶対に編集会議を通りそうもない『ぞ白き』(!)くらいしか考えつきませんが,斎藤真理子先生はこれを「すべての、白いものたちの」ということばに造っておられます.驚愕を超えて戦慄しかありません.ハン・ガン先生も斎藤真理子先生も詩人でもあられるのでした.

ことばは音であれ文字であれ,形に造ると,必ず〈ことば〉性と〈はなし〉性の双方の性質が現れます.ことばの音などことばそのものについての性質が〈ことば〉性,ことばによって想起される意味の世界に立ち現れる性質が〈はなし〉性です.
小説の書評などは大部分がこの〈はなし〉性のほうについて論じています.いわゆるストーリーを追うのは,すべて〈はなし〉性に終始していることになります.これに対し,詩は一般に〈ことば〉性への目的意識的な係わりが色濃く立ち現れます.

韓国語の世界は,詩や小説など文学はもちろん,拙著『K-POP原論』(ハザ),『K-POP 원론』(연립서가)でも強調しているように,K-POPやラップなどもこうした〈ことば〉性への執着が際立っていると言えます.『흰』も『すべての、白いものたちの』も,いずれも〈ことば〉性を極大化しながら,本文との係わりを誘発しつつ題名のことばを〈はなし〉性へも見事に広く解き放つという,素晴らしい題名です.「の」という末尾の助詞によって日本語訳で連体修飾という機能も維持されています.

韓国語や日本語の連体形は

   「美しい → 春」

のように,体言を修飾するというだけでなく,

   「私の生のこの20年間のうちで最も美しい → 春」

のように,前がどんなに長くなっても,全部を述語としてひっくるめて,まとめて後ろの体言に係ることができますね.連体形は文の構造を一気に豊かにする強力な文法的デバイスです.英語で言えば,whichとかwhoなどいわゆる関係代名詞の働きも担い得る,面白い形です.韓国語も日本語同様,節の始まりは形ではマークされませんね.どこから連体修飾節が始まるかは,形では解らないわけです.英語の関係詞が節の終わりを形ではマークしないのと,ちょうど左右対照になっています.
一般言語学では副詞の働きを有する節を造る副動詞形に対し,形容詞の働きを有するので,形動詞形などども呼びます.
日本語では「空青し」という終止形での文終止に対して,係り結びでは「空ぞ青き」のように,述語を連体形で結ぶ,連体形終止も古くは盛んに行われていましたね.
連体形で題名を終止させるという技法は,実は韓国語では20世紀から歌の題名などでも稀に用いられており,現在のK-POPでもまま現れます.例えば,IU(아이유)氏2015年の "The shower(푸르던)" (青かった:連体形)など.

韓国語の連体形が日本語と異なる点としては,『K-POP原論』(ハザ(Haza).2022年)の366頁あたりにもBIGBANGの「봄여름가을겨울(Still Life)」(分かち書きしないのも原文のまま)の歌詞を例に書いているように,日本語のいわゆる現在連体形(非過去連体形)を韓国語では2種類に使い分けるという点があります.(この記述は日本語版のみで,韓国語版『K-POP 원론』にはありません).
日本語で言う「美しい~」は,

①「아름다운」(アルムダウン:今ここで,あるいはいつも,あるいはある一定の条件下では常に美しい=既然連体形.現在連体形)か

②「아름다울」(アルムダウル:いま・ここにはないけれどもいつかは,おそらくは,あるいは別の場や異なった条件下では美しいであろうところの=未然連体形.予期連体形)かに,

常に使い分けるのです.それによって微細な意味を造り上げることができます.この2つが日本語では「美しい」と1つになってしまうわけです.上の題名「흰」[ヒン]は既然連体形(現在連体形)の形です.

『흰』[ヒン]が実現する意味上の問題を考えると,もう作品の中身,韓国語の〈はなし〉性に入ってしまい,本稿の力量を超えますので,深く入ることは控えます.1つだけ.
韓国語には今1つ「白い」を表す하얗다[ハヤタ]という形容詞があります.あとがきにもあるように,この連体形である하얀[ハヤン]を作家は題名に選んでいません.実は「白い」意を実現する하얗다[ハヤタ](真っ白い)という今1つの形容詞は,陽母音という明るい母音から構成されており,対照をなす허옇다[ホヨタ](ややくすんだ白い)という陰母音から構成されている単語と,常に隠れた対を成しています.韓国語の形容詞にはこうした陰母音と陽母音の対立で微細な意味の対照を造り上げる,〈音象徴〉というシステムで造語する単語が膨大な数存在します.乱暴にいってみれば,日本語の

   korokoro, karakara, kirikiri, kurukuru

のように,母音を取り替えて単語を造る方法のようなものです.ハン・ガン先生の作品の題名の方の희다[ヒダ]にはこうした対照をなす単語は隠れていません.韓国語の「白い」を表す形容詞の,作家のこのあたりの使い分けもとても面白いものです.

嬉しいことに,河出書房新社から斎藤真理子先生の訳になる作品の冒頭が公開されています:

   https://web.kawade.co.jp/tameshiyomi/109197/

 ハン・ガン先生の作品群とその翻訳群については,言語について注目すべきことで溢れています.拙著『言語 この希望に満ちたもの』(北海道大学出版会.2021年)でも『희랍어 시간』(문학동네)(ギリシャ語の時間.日本語版は斎藤真理子訳.晶文社)から引用するなどしています.

 ノーベル文学賞受賞という感動的なニュースに接して,上のようなことをつらつらと思います.それにしてもジェノサイドを横目にインタビューなどできないというハン・ガン先生は作品のみならず,作家としても間違いなくほんものです.

 ある言語の作品を他の言語に翻訳するという営みがあり,そこにはそういう営みを実践なさっておられる翻訳家の存在が厳然としてあります.ハン・ガン先生はもちろんのこと,世の全ての翻訳家の方々に心からの敬意と祝杯を.

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