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AIが太刀打ちできない案件に思うこと
現在、「AIが太刀打ちできない(であろう)案件」に取り組んでいます。
ここでいう「AIが太刀打ちできない案件」とは、原文のクオリティがかなり低く、一文が極端に長かったり、文法の誤りが多発している案件のことを指します。
私は、ポストエディット(機械翻訳の出力を元に翻訳する)案件は極力引き受けないようにしています。しかし、ポストエディットではなく、かつTradosなどの翻訳支援ツールの使用指定もない、いわゆる「完全にゼロから訳す案件」を依頼してくれる貴重なクライアントは数少なくなっています。(このような貴重なクライアントに対しては、コメントを丁寧につけるなど、「人にゼロから翻訳してもらうとこんなにいいことありますよ」的なアピールも頑張ってしていますが、やはりポストエディットの長期的なコストの低さにはそのうち敵わなくなるでしょう。)
そして、最近は「クライアントの希望により」機械翻訳の出力が提供され、「もし使えるようであればご利用ください。単価は現状維持でOKです」といった案件が増えています。(こういった案件は、そのうちポストエディットの単価が打診される可能性が高いと思われる。)
さて、話を「AIが太刀打ちできない案件」に戻します。現在取り組んでいる案件は、パターン②、すなわち「機械翻訳の出力が便宜的に提供されている」案件です。
まずは原文に目を通し、次に機械翻訳の出力をざっと見てみます。原文をひと目見て予想できたことですが、機械翻訳は完全に日本語の体をなしていません。こうした案件では、文法の誤りに一定のパターンが見いだせず、AIが学習データを活かすのが難しいからか、必然的に機械翻訳の出力も日本語として明らかにおかしなものになります。結果として、提供された機械翻訳はほとんど無視して、ゼロから翻訳せざるを得ないのです。
AIや機械翻訳が普及する前は、こうした案件を、失礼ながら(心の中で密かに)「ハズレ案件」と呼んでいました。手間がかかる上に、場合によっては普段の作業の倍以上の時間が必要だからです。
そして、今まさに、かつて「ハズレ案件」と呼んでいたような案件に取り組んでいるところなのですが……。訳していると、以前と違って、なんだろう……なんだか楽しいんですよ。
脳の全体を余すところなくフルに使っている感じが、かつて翻訳を心から楽しんでいた頃の気持ちを思い出させてくれます。たしかに、時間と労力はかかりますが、「ああ、翻訳の楽しさってこんなだったよな」という気持ちがよみがえるようです。
それとやはり、ゼロから訳すことで「自分自身で全体をコントロールできる」という感覚があるのも、楽しさの要因だと思います。
機械翻訳や翻訳支援ツールを使用すると、自分がゼロから訳していない部分が虫食い状態で発生することになるので「責任が分散され」、どうしても全体のコントロールが難しくなってしまいます。そうなると、翻訳が「作業」になってしまう部分がどうしても発生してしまい、一気にモチベーションが下がってしまうのです。
「考えることの必要性」と「全体をコントロールできること」は、この仕事のやりがいの重要なファクターなのかもしれません(少なくとも私にとっては)。
もしこれらが今後失われていくとしたら、果たしてこの仕事を続けていくことに意味はあるのだろうか…?とあらためて考えざるを得ません。