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「想像力」と「忖度」の違い

私は、わからない。言葉の選び方、表現の仕方次第で「同じ出来事」が、善にも悪にも転がるような...と思い、考えてみた話。

いつの間にやら、夜明けが遅くなり、日が暮れるのが早くなりましたね。夏の終わり、秋の訪れ、を感じ、ちょっと切なく、ちょっとワクワクしているKaori です。

今日は、日本語の話について、日常の出来事から。

例えば「行間を読んでよ!」と言われると、「えーっ...。今時、そんなこと...行間読めとか、忖度しろってことですよね。それ辛いし、はっきり言ってほしい。」と正直に(心の中で)思ってしまう。

先日「忖度しろ」は、マネジメントの放棄だ、というお話を聞き、「その通りだな。私は、絶対に「忖度の強要」をしないように気をつけなきゃ」と納得しました。

一方、「相手の痛みや気持ちに配慮することは大事。相手の思いを想像しよう、そういう想像力が必要だよね。」と言われると、「うんうん、その通りだよね。大事大事...。私も、「相手の気持ちを想像」するように気をつけなきゃ。」と、素直に思います。

前者は「忖度」問題(要求する方が悪)と、後者は「想像力」問題(できない方が悪)と、私は、無意識のうちに区別していました。

でも、この2つの事象は、何が違うんだろう。
要求されること、要求していることは、一緒ではないでしょうか。

忖度とは:

他人の気持ちをおしはかること。推察。 「相手の心中を-する」
三省堂 大辞林 第三版

流行ったきっかけが、政治的な背景もあり、ネガティブな印象が強く、忖度=「悪」の印象がついてしまったけれど、辞書、そのものの意味は、私が「善」と整理していた「想像力」と、ほぼ同じです。

「忖度」や「行間を読む」が、ネガティブな意味合いで使われつつある今、言い回しだけを変えて、同じことを要求する場面が、ちらほらと目につくのも事実です。「想像しよう」「共感しよう」、綺麗な言葉に変換されて、結局は、忖度を要求している人びと。

ここまで考えた、私の結論は、言葉の選択は色々あれど、「他人の気持ちを推し量ること」「自分の気持ちを察すること」を「相手(特に、自分より立場の弱い人)に要求する、強要すること」は、マネジメントの放棄であり、やめよう、でした。

私も昔は、よく「私の気持ち、言わなくても分かってよ...。察してよ...。」と夫に対して、暗に要求し、察してくれない夫に、キレたりもしていましたw、が、今は、伝えるようにしていますww

しかし...

ここで、子育て問題にぶつかります。私は、よく娘を叱るときに...

「これしたら、相手がどう感じると思う?想像してみようね。自分がされて嫌だと思うことは、相手も嫌と思うかもよ。」と言っています。いじめとか、人権の問題って、特に「相手の気持ちへの配慮や想像が大事」とされる気もしています。

これって、忖度の強要なのか!? うーん。。。

結局のところ、綺麗に善悪を整理することはできず、その言葉や要求の「受け手」である、例えば「立場の下の人」「夫」「子供」がどう感じるかなのでしょうか。

つまり、「受け手」が「嫌だな、そんな他人の気持ちを察することを要求されるなんて」と思えば、「悪」だし。「私の配慮が足りなかった。もう少し、相手の気持ちを想像しなくちゃ」と思えば、「善」なのかもしれない。

全体の中で、最終的に、誰が攻撃者で、誰が傷ついているのか?、嫌な気持ちになっているのか?、という「事実」が大切であるとも感じます。

一方で、「阿吽の呼吸」が生まれた日本の基本的な文化特性を考えると、今後も「忖度の強要」はなくならない気もするのです。例えば、日本の営業パーソンは、これからもずっと「お客さまのニーズ」を察する力を、要求され続けそうです。

いつも通りですが、考えても考えても、クリアな答えのないことばかり。でも、こうして、考えを巡らせ、自分の中で、少しでも思考をしていくことが血となり、肉となる...と信じて。(とはいえ、一人で悶々と考え続けるのではなく、筋道をたてて思考するための方法に、文化人類学が有効かもと思い始め、本でも読もうと考えています。)

それでは、今日は、忖度と想像力について、考えてみた話。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また、遊びに来てくださいね。
それでは、みなさま、良い週末をお過ごしください。

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