焦りと憧れ
小さいころから何かにあこがれることが多かった。
いつかあんなことをしてみたい、いつかああなりたい、いつか・・・
小さな願いがシャボン玉のように浮かんでは私の周りをふわふわと漂っていた。
シャボン玉たちはたいていあっけなく消えていったけれども、長いあいだ頭の片隅に残っているものもいる。
その中のひとつが、行きつけのカフェをつくること。
本好きなら誰もが一度はあこがれたことがあるだろう。
小さいけれども居心地がいい静かなカフェ
木のカウンターがあり、向かいではマスターが慣れた手つきでコーヒーを入れる。
自分の番がくるのを待ちながら持参した本に目を落とす。
やがて届いたコーヒーとケーキを味わいつつゆったり過ごすのだ。
そんな時間にあこがれつつも、幼い私にはコーヒーは苦くて飲めない大人だけの特別な飲み物だった。
コーヒーを楽しめる年齢になっても日々の忙しさや経済的な理由から、特に社会人になってからはペットボトルに頼りっぱなしで、憧れはシャボン玉に閉じ込められたままくすんでいった。
そうして過ごす何年目かの春、社会人になって初めて後輩といえる存在ができた。大学を卒業したての彼女は明るく素直で、慣れない環境に盛大に愚痴をこぼしつつもテキパキと着実に仕事をこなしていった。
そんな彼女に「すぐ慣れるよ」なんて偉そうに言いつつ、ほほえましく見ていたが、夜自宅に帰ると奇妙な焦りが胸を焦がした。
彼女の成長ぶりと比べて自分がちっとも変っていかない気がしたのだ。
憧れはたくさんあるのに、ひとつも実現できていない。
焦りはあるのに行動するのはこわい。
(意気地なし)
そう自分にささやく。
もやもやくすぶる日々が続いた。
くすぶり続ける気持ちに自分でもいい加減うんざりした日、外出ついでに近所にあるカフェを探してみた。
地図を片手にひたすら真っすぐ歩く。
右、左、右、左、何も考えずにただただ足を運ぶ。
風が気持ちよかった。
小さな看板が見えた。
恐る恐るドアを開けると「いらっしゃいませ」と優しく声をかけられた。
「お好きなお席へ―」とお決まりのセリフを聞きつつ吸い寄せられるようにカウンターの端の席に着いた。
壁に囲まれ小さなランプがほんのり光っていた。
コーヒーを頼んでかばんを覗いた。
今日は何が入っていただろうか。
「数学ガール」だった。
ここで広げるには大きすぎるかな?と思いつつ、ほかの本は見当たらないのでそっと取り出した。
「僕」と一緒に数式に向き合うと少しずつ頭が澄み渡り、もやもやが落ち着いていった。
もう何年も前から心迷う度に「僕」と一緒に深い数式の海へ飛び込んでいった。
そっと差し出されたコーヒーとケーキを一口あじわう。
ほっとした。乾燥した心にひたひたしみわたっていった。
自宅に戻り、ノートを取り出した。
一つひとつ書き出していく。
静かに今の自分、過去の自分、未来の自分と向き合う
と書いて少し手が止まる。
シャボン玉が割れる音がした。
今はまだ「行きつけ」にはなれていないけど、それでも憧れは現実の世界に、こちら側に来てくれた。
心の底でチリチリと燃えているものはあるけれど灰色の煙は無くなった。
”人生は長く、世界は果てしなく広い。肩の力を抜いていこう”
そっと龍さんの言葉が浮かび上がる。
まずは一つ、シャボン玉の中身を手に入れた。