外傷を抱えて生きる人に対して冷酷な人々
女性専用車両に男性が乗り込み、過呼吸を起こした乗客がいたというツイート。
このツイートに対し、「男性を見たくらいで過呼吸を起こすなら日常生活はできないはず、すなわちデマだ」「そんな状態なら精神科に行くべきだ」「こういった類の投稿には懐疑的だ」「男女平等なら女性専用車両などいらないはずだ」など、驚くべきほどに想像力を欠いた、平板な字面が並んだ。
まさに現代日本社会的な性差別的応答であると思った。
仮にこのツイートがデマだったとして、私はそれがデマであることが問題だとは思わない。疑問視さえされない性暴力が蔓延るこの社会の中では、じゅうぶんに起こりうる事象だからだ。起こったとしても何の疑問もない事象だからだ。
私たちは社会生活を送る上で、暗黙の信頼関係を持って共存している。目の前の人が突然殴りかかってこない、突然刃物を振り回してこない、プライベートパーツに触ってこないなどという前提に則って生きているのだ。これを基本的安全感という。しかし、意図しない場で性的関心の対象にさせられたり、身体侵襲を加えられたりする経験をすると、この基本的安全感は瓦解する。あまり知られていない事実ではあるが、日本において、こういった体験を有する女性は決して少数でない。ただそれを口にしないか、自覚がないという人が大多数であるというだけで。
痴漢でもセクハラでもDVでも、その内容が何であれ、異性からの被害体験の後、異性と共存しながら普通に生きていくということは極めて消耗的な営みである。そして現時点の統計調査では、性被害者の9割以上は女性であり、加害者の9割以上は男性だ。
体罰や一般的な暴力における侵襲性の本質は、肉体に与えられる苦痛そのものというよりは、自らの意思を、他者からの一方的支配によって無力化させられることで、一人の人間としての自律性と主体性を破壊されることへの苦痛であろうと思う。性暴力は、その最たるものだ。この点を無意識にあるいは意図的に無視し、性暴力の性的要素だけを抽出し、さながらアダルトコンテンツを娯楽的に消費するような人々には、性被害のその後を生きることに伴う魂の痛みなど、永久に理解できないものと思う。
以下、代表的な意見に対して私の見解を述べたい。
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