あまりに強烈「ゆきゆきて、神軍」-映画のことばかり考えてる。part4
三島由紀夫は身体が弱かったために徴兵されなかったことに大きなコンプレックスを抱えていたらしい。戦争に行かなかった自分は代わりに何かをやり遂げなければならない、そんな使命感があったのではないだろうか。
一方、「ゆきゆきて、神軍」の主人公である奥崎謙三は戦争には行ったが、生きて帰ってきたがために何かをやり遂げる使命を感じているように見える。
私は「ゆきゆきて、神軍」を観る直前に、偶然にも大岡昇平の「野火」を読んだ。奥崎謙三がいたニューギニアとは場所こそ違えど、凄惨な戦場を生々しく描いた小説に共通するものを感じた。
その一方で違いも感じた。神軍平等兵を名乗り天罰という言葉を繰り返す奥崎謙三は明らかに神の存在を意識している。だが、映画内の彼の言葉によれば、彼は人を食べること無く生きて帰ってくることができたそうだ。だが、インタビューを受ける他の帰還兵は淡々と人を食べて生き延びたことを語る。そこに心情の変化のようなものは私は感じなかった。「野火」の田村一等兵が飢え、人を喰らい、神に触れ、狂気へと陥っていった様子とは大きく異なる。
もちろん実体験を元にしたとはいえフィクションである「野火」とドキュメンタリーである「ゆきゆきて、神軍」の人物を比較するのはナンセンスではある。しかし、戦地での経験が人にどんな影響を与えるのか一考させられた。
奥崎謙三の強烈なキャラクターが忘れられない印象を残すが、それがなくとも淡々と語られる戦場の様子も強烈である。戦後生まれの我々には想像することすら難しい。その戦場で怒りに駆り立てられ、帰国後も戦い続けることをやめられなかった奥崎謙三の真似を戦後生まれの人間がする必要は無いだろう。しかし、奥崎謙三は「戦後生まれの人間には戦後生まれの人間の使命がある。戦え」 、そう言うような気がする。