見出し画像

人間として、1周目

年始に実家で大前粟生の「きみだからさびしい」読了。自分がいつか恋愛というものについて書くならこんなふうに書けたらいいなと思うような文章だった。登場人物それぞれのセクシャリティや心情がとても丁寧に描かれていた。大前粟生はずっと文章でクソすぎる世界と戦っているな、といつも励まされる思いだ。だけど、登場人物のみんながやさしいから、こんな最悪な世界ではこういうやさしい人たちが傷ついてしまうんだろうとかなしくなった。だからこそ物語の最後は希望が見える終わり方だったことが嬉しかった。恋愛の暴力的な側面や、好きだと思う、あるいは思われる、ということについて。主人公の圭吾が、ポリアモリーのあやめのことを好きだと思う気持ちに葛藤ししているところを読み進めていくと、自分も一緒に苦しくなった。
自分のことを客観的に見てしまう癖があり、そうしているとどんどん自分の欲望や欲求がわからなくなっていく、というような圭吾の台詞が印象的だった。相手のことを理解したい、尊重したい、だけどその結果自分がさみしくなったり苦しくなったりするときはどうしたら良いのだろう?その気持ちはどこに行くんだろう?この小説を読み終えてもわからなかった。

もうずっと「好き」という気持ちについて考えている。友達の好き、恋人の好き、人としての好き、家族への好きなど。そのすべてのグラデーションがなくなって、消えちゃえばいいのにと思う。そう思って眠るけど、朝起きたらまたそれについて考える、その繰り返し。もうこれについて考えることに疲れた。ただ自分の中にあるひとつの、シンプルな「好き」を信じることができたらいい。

ーーー

アルバイト終わりに集合して友達と途中まで見ていた「ブラッシュアップライフ」を見る。最終話を見終わったときには感動で胸がいっぱいになった。

ずっと自分が思っていたことが可視化されたような感覚になった。あーちんとうのまりは、それぞれ人生をかけて大きなことを成し遂げたように見える。だけど、その先にあるの友達4人との他愛のないおしゃべりの時間だった。この時間を、命や人生をかけて守る。それしかないじゃんね、という気持ちになった。

何話目かの冒頭の夢のシーンで、カラオケであーちんはパイロットになってなっちとみーぽんを救うよ、と伝える。それに対して2人は「えーありがと」「ここ出すよ」と返す。命を救うことに対してのこのフラットさも、4人の信頼関係を感じてアツい気持ちになった。大それたことを成し遂げるのはもちろん素晴らしいことだ。だけどもっと大切にしたいものがたくさんある。

ドラマを見終えて、深夜2時過ぎ。友達と粗大ゴミに出すソファと姿見を爆笑しながら外まで運んだ。いちに、いちに、って言いながら運ぼうってなったのに、全く揃わなかった。本来運ぶことのないものを友達と運ぶというバグが起きていることがとにかく笑えた。こういうなんでか爆笑できる時間のために生きているのかもしれない。

(これは去年書いた文章)

ーーー

翌朝、もう義務だよね、と言いながらいつもの朝マックへ。昨日出したソファと鏡が冬の朝のきれいな光に照らされていた。冬はなんでもきれいだ。道の横に出されたソファーと鏡と友達の後ろ姿を思わず撮る。

多分この街のマックに行くのは最後かもしれない。友達が住んでいた街にもほんとうに思い出がいっぱいある。私たちは上京してから3年と数ヶ月、練馬区で生活を続けた。これからは新しい街でそれぞれの生活。この3年のことを思うと多少センチになってしまうけど、今はお互いの変化にワクワクする。よく今日まで生きれこれた、わたしたち、がんばったよね。

こんな生活、一生守っていくしかないな、というか守りたい、守る。私はそういう時間にずっとたすけられてきた。改めてそう決意して、それぞれのアルバイトへ向かう朝。本格的に寒くなってきた。



いいなと思ったら応援しよう!