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20代の頃、月100万円使ってたけど


お金なんてくだらない価値観捨ててしまおう。


タイトル少し盛った。実際には毎月70〜80万前後で、MAXで100万使っていた頃の話だ。

24歳〜27歳の3年間の話。当時の金銭感覚は思い返せばかなりイカれていた。

年収は当時600万くらい。
あとは相続で、1500万くらいの預金があった。
(正確な金額は忘れたけどこの近似値)

さて、25歳前後なんてまさに遊び盛りだ。月200時間は働いていたけれど、睡眠時間なんて削って、仕事以外は常に誰かと会っていた気がする。

そんな僕が「お金という概念を無くすレベルで」自由に使いまくっていた生活を紹介する。

まず、当時家賃9万円の1DKに一人暮らししていたのだが、その家を契約したまま友人たちと別の地域でルームシェアしていた。「2拠点生活かな?」って思うかもしれないが、ルームシェアしていた期間は、一度も1DKの方には帰っていない。

しかも、数ヶ月エアコンもつけっぱで。エアコンがついたままということも気づいていたけれど、面倒だから放置していた。住んでもいないのに毎月の家賃9万と、電気代2、3万の10万以上を無駄に払っていたのだ。今考えてもマジで頭がおかしい。

ルームシェアは横浜市の白楽という地域でしていて、当時の勤務先が横須賀市の追浜という場所だった。距離にすると30km弱。高速道路を使って45分ほどの場所だ。

もともと朝が弱かったのと、ルームシェアは寝る時間が遅くなりがちなので、朝はとてつもなく眠い。眠気には逆らえない。しかし仕事は遅れるわけにはいかない。というわけで、タクシーで通勤していた。

たしか、1万円以上したと思う。

理由は眠すぎるからタクシーの中で寝ながら通勤すれば良いと思ったのだ。こういうのは1回やると癖になる。多分50回はタクシー通勤した。帰りは流石に電車使った気がするけど、これも今考えると笑っちゃうくらい頭おかしい。

ルームシェア期間を終えて、1DKの部屋に帰ってきた時は同棲生活だった。彼女の食費もほぼ全て出していたし、基本的に外食かデリバリーをしていたので、毎月15万以上は余裕で使っていた。

服も、ファッションにはそこまで興味は無かったが、適当にバレンシアガの服を買っていた。アウターが20万とかしたのは覚えている。

ともかく、何かを買うにもお金を気にしていなかったし、面倒なことがあれば全てお金で解決していた。

カードの支払いが毎月60万くらいで、その他生活費の引き落としが20万くらい。なので大体毎月80万くらいだっただろう。

で、それだけお金を使いまくっていて、
幸せだったかと振り返ると、別にそんなことはない。

確かに面倒なことは回避出来ていたけれど、それが幸せだと問われると微妙。買いたいものは大体買えたけど、「買えたから何?」って話だ。買い物で得られる幸福なんて数日も持たない。

旅行だって、行きたいときに好きなだけ行けたけれど、それが幸せかと言われると微妙だし、別に1年に1回行けたら良くない?って話だ。

なにかに通常の数倍のお金をかけても、幸福度なんて少ししか上がらない。そのうえ、上には上があるので際限なく求め続けてしまうという泥沼コースでしかない。



そして、僕はこの経験を通して、完全にお金に興味を失った。元から興味がある方ではなかったけれど、ほぼ完全にどうでも良い価値観になった。

細かいニュアンスだが、自分が価値を提供してお金を稼ぐという、一連のパッケージは好き。でもお金自体はどうでも良い。

自分が価値を作ったその対価はお金じゃなくても良い。やりがいとか反響とか、そっちの方が価値として大きい。

結局、僕はお金を保有していることも使うことも、どちらにも大した幸福感を感じなかった。お金があるから「安心」ならわかるけれど、それでも「安心」と「幸せ」は違う。

まず、お金で買える「差」なんて大したことない。


例えば、食事だってそうだ。
「1000円の自炊」と「3万円のディナー」

コストは30倍だけど、30倍の満足度の差があるかと言われると全然そうでもない。

「牛角」と「5万円する焼肉」でもコストは10倍以上の差があるけれど、牛角より10倍美味いかって言われると全然そんなことはない。せいぜい2倍とかそんなもん。

冷静に考えると食事に限らずだが、金額の差の方がただ大きくて、幸福度の差は大して生まれない。

だったら、「最低限生きるために必要なお金」だけあればそれで良いんじゃないのと思っている。

ITで便利になったこの社会。月20万あれば、ネットにコンテンツは溢れてるし、普通に幸せに暮らせる。


そこで、「ゼロベース人生論」だ。


そもそも「本当に必要なのか」と考えると、
大抵のものは「実はいらない」って事がある。

「生きるための最低限のお金があれば良い」
と言ったが、ここで問題になるのが“最低限“の基準が人によって違うことだ。


例えば、家で考えてみよう。

「家賃3万の部屋」で十分満足する人の一方で、
オートロック鉄筋コン、3F以上、システムキッチン、40平米が無いと駄目な人がいて、15万くらい払う人もいる。

スマホでもそうだ。

格安スマホで満足する人がいる一方で、最低限iPhoneじゃなきゃ満足できない人もいる。しかも、iPhoneでもProモデルじゃないと満足できない人もいる。

ちなみに、僕はこのiPhoneの話をよくする。
僕は絶対にiPhoneのProモデルじゃないと納得できない。

なぜなら、ディスプレイのリフレッシュレートという「表示の滑らかさ」がProは120hz、普通のモデルは60hzと、2倍違うのだ。

詳しい説明は省くが、要するにパラパラ漫画の紙の枚数の差である。60枚のパラパラ漫画より120枚のパラパラ漫画の方が表示がより滑らかだ。

でも、別にどうでもいい人はたくさんいて、

「別に普通のiPhoneでいいや!」

といった具合で、普通のiPhoneも売れる。
僕からしたら「嘘だろ!?」と思うけれど、

要するに、個人の価値基準なんて本当にバラバラ。


このように、「譲れない価値基準」は各々色々とある。けれども、この「譲れない価値基準」をいたずらに増やせば増やすほど、実は不幸になるんじゃないかって思う。

さっきのゼロベース人生論に戻す。

ゼロベースで考えると、そもそもスマホなんて本当は格安スマホでも良い。スマホが無いのはこの社会で不便すぎるので論外だが、わざわざiPhoneである必要はない。

Proである必要なんてもってのほか。
だが僕は高リフレッシュレートという「譲れない価値基準」に縛られて、iPhone Pro以外で幸せになれない人間になってしまったのだ。だから格安スマホの人よりも幸せになるためのコストがかかる。

ゼロベースで考えたらマイホームも別にいらない。
わざわざ数千万出して買わなくとも、適当な安い賃貸でも十分に生活できるし、好きに引越ししまくれてフットワークは軽くなる。

服だって、ブランドものを買わなくとも全部ユニクロで良い。さらにもっと安い街の洋服屋でも良い人は良いのだ。

でも、それじゃ幸せになれない人がいる。

「譲れない価値基準」が高くなればなるほど、
「幸せを実現するコスト」
「幸せを持続可能にするコスト」は高くなる。

だから、みんなお金に縛られる。
「価値基準」が上がることは、「大人になること」とか「ライフステージが上がること」みたいに思っているけど、自分を無駄に縛り付けている概念でしかない。

プライドとか、見栄とか、世間体みたいなものが、お金の価値を必要以上に膨らませている。

だから、
お金がないと幸せになれないと思ってしまう。

「いや!それは金を持ってない人らの詭弁だ!」
「持ち家は最高だ!」
「服はブランドもの買え!」


と言う人もいるかもしれないけれど、そしたらスマホを見せて欲しい。全員、iPhone Proなのか?もし違うのなら僕が「iPhonePro以外認めない!」と言っているのと変わらない。ただの勝手な価値基準に他ならない。

タワマンじゃなきゃ満足できない人もいれば、
タワマンマジどうでもいいと思っている人もいるのだ。

この場合、「タワマンどうでも良い人」の方が、コストが低くて不幸になるリスクが少ない。

まず自分の中の「譲れない価値基準」をゼロベースに立ち返ってもう一度見直したい。

無駄な価値基準はいっそ壊してしまえ。

基準を高くすることは、幸せになることと直接関係がない。なんならその基準を保ったり変に目指してしまって、金に囚われて不幸になるリスクを自分で上げているとまで言える。

だからこそ、「お金」とかいう価値観に縛られないで自由にやりたいように生きている。

少なくとも僕はお金では幸せを感じられなかったし、僕が幸せを感じる瞬間はいつもお金が関係していない。

そして今も、別にお金を大して必要としていない。
ゼロベースで考えると大抵いらないものだから。

目の前に100万円置かれても、それに見向きもせずに自分の好きなこととかやりたいことをやってる人、みたいな存在を目指している。


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