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敵意には敵意で返すべきなのか



平和を目指すなら、敵意で返すべきである。
一見矛盾してそうだ。実は本当に矛盾している。

いやはや、突然物騒な話であるが、

「殴られたら殴り返すべきか」という話だが、これは何らかの形でやり返さなければならない。相手が困る損失を出せば良いので暴力に限らないが、一番良く効く方法は暴力である。

「いややり返すのも暴力も嫌がらせもダメでしょ」

その通り!
世界がそう思える倫理を持っている人だけなら。

でも現実は悲しい結論になる。

注)ちなみに僕は一度も人を殴った事がない暴力反対派であり、一般論として書く。この記事は暴力そのものを推進しているわけではない。

ともかく、人間関係は平和である事が一番だ。
なのになぜ、このように思うか。

結論は、
「やり返さないと平和にならないから」だ。


もっと正しく。
「やり返してこないと思われてると平和にならないから」だ。

人は反撃してこない相手に対して攻撃的になる。いじめや暴力事件、傷ましい事件の被害者はいつだって反撃して来なさそうな人が狙われがちである。

言葉の暴力も同じことが言える。
言い返して来ない相手には、好き勝手に言ってしまうのが人間というものだ。

いじめの心理だってそう。
反撃してこなさそうな相手が標的になるし、報復が面倒臭いことになりそうな相手に対しては、いじめは発生しないだろう。

それと大事な前提だが、人間のデフォルトは残酷だ。未熟な子供は平気で人をいじめたり、平気で残酷なことをする。

ただ、そこから大人になるにつれ倫理や道徳を育むことで、人の気持ちがわかるようになってくるものである。

「相互確証破壊」という抑止の概念

「相互確証破壊」は、核兵器を持つ国同士が「もし相手を攻撃したら、自分も反撃されて両方とも滅びてしまう」という考え方のこと。

つまり、「攻撃すると自分も終わる」という状況があることで、逆に核使用を防ぐ仕組みで、いわゆる「恐怖の均衡」である。

これは人間関係にも同じ事が言えるんじゃね?というのがこの記事を書くきっかけ。例えば、弱みを握り合っている人間同士の関係性は、かえって安定するのは有名な話だ。

皆、言葉という武器を持っているが、どちらかが攻撃すると反撃される。だから言わない。

じゃあやり返してこなさそうな人に対しては?
店員さんに対して横柄な言動を取る人なんてその最たる例である。「⚪︎⚪︎な男はイヤだシリーズ」殿堂入りも頷ける。

会社で、嫌がらせをしてくる人がいるとする。そういう人に対してもしっかりと敵意で返すべきだし、必要なら社会的な報復も視野に入れなければいけない。

少なくともしっかりと敵意を返すか報復を行う姿勢を示せば、「反撃されるからやめておこう」と相手は思いとどまる可能性は高まる。

したがって、平和に生きたいのであれば

「何かされたらやり返さなければならない」

という悲しき矛盾した結論が出てきてしまう。

「やり返しても良い」ではなく、
「やり返さなければならない」だ。


やり返さないといつまで経っても平和にならない。平和のために争わなければならない。

ただ、そこら中で争いが発生するのはあまりにも怖いので、争いまで行かない為にも日頃から、

・何かしたらやり返すぞというオーラ
・これ以上来たらこっちもイッちゃうよ?感

を、特訓しなければならない。

「てかてか!話し合いとかで何とかならない?」

何とかなってないから、歴史は争いを繰り返してきたし、いじめはいつまで経ってもなくならないし、残酷な事件もなくならない。

話し合いで何とかなる倫理を持ち合わせていれば良いが、世の中には一定数、倫理が欠如してる人間がいることは忘れてはならない。

だから、もう仕方ないね。

「恐怖の均衡を保つ事が唯一の平和だね」


と、今のところの人類はそう答えを出したとさ。


...っていう結論にしか辿り着けないのが
「人間の倫理の限界」なのかなあと思う。

これだけテクノロジーも医療も社会も何もかも進化してきたのに、

人間の倫理だけは、全く進化していない。


追記)
これは匿名のネットでも同じことが言えると思っていて、フジテレビとか中居くんの件とか、反撃してこない相手を狂気を感じるレベルで叩きまくる。怖い国、にっぽん

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