「もったいない」の呪いを打ち破れ。
雑誌を見れば綺麗に片づいてお洒落なインテリアに囲まれた暮らしがあちこちにある。
選び抜かれた、大切なものだけを、ほんの少し。
スッキリとした空間。
無駄のない収納。
凛とした佇まいであるべき場所におさまっている。
翻って我が家である。
物に執着がないのに、何故かあちこちに詰め込まれたモノたち。
はて、君たちはどこから来たのかな? と出自を考える。
ああ。
「プレゼント」と称したもらいもの。
そして「いいものだから」と渡された趣味の合わないもの。
愛情とともにやってきたものたちは、当たり前の顔をして我が家に居座る。
もちろん、なんとなく欲しいで買ったものたちもたくさんだ。
だけど使う予定もないからどこかのスペースへととりあえず収納されている。
いつの間にか増えたモノたちは、どっしりと腰を据え、不動の位置を手に入れる。
もちろん使う予定はこの先もないだろう。
でも何故か捨てられない。
そもそもいらないって最初から断れない。
なんでかなってことに思い当たったのはつい最近のことだ。
古い記憶が蘇る。
それは×十年も昔の話。
祖母がバリバリ現役だった頃のことだ。
あの頃、祖母は我が家の女帝だった。
あの時代の人にしては珍しいくらい稼ぐ人だったしお買い物も大好きな人だった。
愛情とともに「使いなさい」と渡される服や小物。
子どもながらに「微妙…」と思いながら断れば雷が落ちることは体験済みだ。
せっかく人があげるっていうのに天邪鬼だね。
可愛げのない。
憎たらしい子だ。
散々浴びせられる罵声に「とりあえずありがとうってもらっておこう」をマスターした。
「嬉しい!ありがとう。欲しかったの」
ニッコリ笑って大げさなくらい喜んで見せる。それくらいわたしだってできた。めっちゃ空気を読みまくる。
問題はその後だった。
子どもだからすぐに成長してサイズも変わる。
もちろん服を汚すこともある。
「もう着れないね~」となるのは当然のことだ。
だが、もらって数年たってから祖母は言うのだ。
「あの時あげたもの、返してちょうだい」
汚れたので処分したと答えれば、再び雷が落ちる。
「せっかく人があげたものを勝手に処分するなんて! もったいない!
あれは次は◦◦さんのお孫さんにおさがりであげるつもりだったのに」
はああ? である。
その繰り返しにあの頃の母はさぞ苦労したことだろう。
孫のわたしでさえトラウマになるほどだ。
多分わたしの中にある
「とりあえずもらわなきゃ」
「そして、返してって言われてもいいように保管しておかなきゃ」
「捨てたのがバレたら大変なことになる」
この思いが、使わないものたちを取り合えず残しておくパターンに繋がっているのでは___
そう気がついた時、突然泣きたくなった。
どれだけの年月をこの思いにとらわれていたのか。
普段は全然表に出てこなかったのに、ずっと奥深くで息づいていた健気な感情。
これは乗り越えよう。
貰ったいらないものを捨てることで、過去に感じていた憤りを昇華させてあげよう。
怖くない。
もう、怒る祖母はいないのだから。
もし使わないと思っている物を処分できたら、わたしは一歩進める気がする。
些細なことだけれど、わたしの中に眠っていたトラウマが目を覚まして「そろそろ解放しませんか」と言っているようだった。
そうだね。
そろそろお別れの時が来たんだわ。
6月に入って断捨離を始めた。
すぐにポイポイと捨てれるわけじゃない。
だけど「ここを乗り越えよう」を合言葉にゴミ袋と一緒に戦っている。
祖母が愛情をもってしてくれたことなのは理解してる。
そして戦中戦後を生きてきた人だから「もったいない精神」を大切にしていたことも理解できる。
使えるものを捨てるなんて傲慢だし罰当たりなんだろう。
だけど「いらない」と思っているものたちと一緒に生きることの方が、もっと罪なのではないか。
愛情をかけられないものを保管して、何になるっていうのだろう。
それに押しつぶされた本当の好きなモノたちを大切にできない方が、もっともったいないことなのだ。
物をあふれさせるのはとても簡単だ。
何も考えず、方向の違う「もったいない」を言えばいい。
大切にしているんだと勘違いしていればあっという間になれる。
でも押し入れや段ボールに押し込んだまま眠らせていることは本当にモノを大事にしているんだろうか。
住人の方が肩身を狭くして生きるのは豊かなんだろうか。
モノとの関係は難しいけれど「もったいない」の呪いを断ち切れれば遥かに幸せな空間が待っているんじゃないか。
わたしはそう信じている。