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だから、私もそうだった。

フロイトが「反復強迫」と呼んだ「心理現象」は、日常で耳にするとまるでオカルトと変わらない「怪奇現象」のようになってしまいます。

たとえばある人は「行く先々で」ハラスメントする上司に出会います。

別の人は「行く先々で」レベルの低い同僚に悩まされることになります。

彼女にかかわってくる人たちは、彼女を利用しようとするか、もしくは仕方なく彼女にかかわっているのだった。だから、私もそうだった。(太字は佐々木)

松木邦裕さんのこうした表現には感動します。「投影同一化」とか「視座」といった言葉からかけはなれて「だから、私もそうだった。」ですんでしまうのです。

クライアントの女性は人に「絶望的に好かれようとして」いるのです。自分でそう気づくのが不可能になるほど、あまりにも彼女は他人からの愛を求めます。

自然と彼女の目には「他人は自分が求めるほど、自分を好いてくれはしない」と絶望し、「利用される」か「やむを得ずかかわってくれる」としか感じられなくなるのです。

結果として「行く先々で」彼女を利用する人たちばかりと巡り会います。どこに行っても不幸が続く、怪奇現象に巡り会います。

その彼女の世界に入ってくる人に「例外」はあり得ません。松木さんも同じ、「人を、クライアントを、利用するために」彼女と会うのです。だから同じなのです。

ここからさらに不思議な展開に進みます。人は、とくに不幸を確信しがちな人は、自らの不幸を現実に「実証」したくなるようなのです。

そのため彼女は、私が彼女を見捨てるか処罰するように懸命にふるまった——盗み、うそ、自傷、性的逸脱、対人トラブルなどの繰り返しである。そして、まず自分を責めた。加えて、陰に陽に、私も責めた。

これだけ徹底されれば「誰でも」彼女との関わりを打ち切りたくなるでしょう。「だから、私もそうだった。」のでしょう。似た事態を繰り返しつくりだしているのはたぶんに彼女自身かもしれません。でもそれだけであるとはいいきれないのです。

 ずいぶん時が過ぎて、うつむいたままだった彼女はそのまま口を開き、『どうして、見捨てないんですか』と独りごとのように言った。それを聴いて私は考えていた——「どうして私は、この人を見捨てないのだろう』と。それは、熟考するに値する問いに私には思えた。だから私は考えつづけた。
 それから彼女はまた沈黙に戻った。それは前ほど長くはなかった。空気を切り裂く強い口調で、『見捨ててよ』と彼女は顔を上げて言った。

ありふれたふつうの日常には、混ざり物が多く、とらえがたい要素に満ちています。私たちは成熟するにつれ、矛盾に満ちて見えながらも、なんとか現実として整合している関係を抱えていけるようにもなります。

しかしその余裕が失われてしまうと、もっとシンプルな「生存戦略」に頼りたくなります。

けっきょく人は金で動く、とか、男は性欲でしか女性を見ないとかいった、口達者な小学生のような言葉を「生きる指針」にしてしまうのです。

やっかいなのは、こうしたシンプルな指針に沿って動いていくと、現実をその指針に沿うように「つくりだす」ことすらも私たちにはできてしまうらしいのです。同時に現実のほうもその指針に沿って動いているかのように「協力」を始めるらしいのです。

だから「けっきょく」という言葉には注意が必要なのです。この言葉につづけて「金」とか「承認欲求」とか「自己肯定感」とか言っているうちに、似たような現実とばかり巡り会うようになります。

私たちは、クライエントに仕事として会っている。つまり、心理療法に特有の構造とかかわりを私たちは実践し、そこに金銭の授与がなされている。だから「仕事で会っている」。ただし、それは愛情があることを否定するものではない。どちらかなのではない。