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どんな行為にも価値があると仮定しないと見つからないもの(山崎孝明『当事者と専門家』から)
私はライフハッカー、ビジネス書作家、タスク管理を広める人間として生きてきました。
だから私が
「どんなタスクにも等しく価値がある」とか
「行動が人の価値を上下させはしない」とか
「やってもやらなくてもなにも変わることはない」とか言っても「やさしさから慰めで言ってくれている」と私の「善意」を酌み取られてしまうもどかしさがあります。
これを「本気」で言っていると認めてもらっても今度は怒りを買うのです。
しかし私はむしろ「ライフハッカーだから」こういうことを言うのです。そうしないと私たちは「ムダなこと」を日常から閉め出そうとして、あっという間に強迫的になってしまうか、でなければ自責の念に押しつぶされてしまうと思うからです。
その女性と私は、どうしても家の金を使い込んでしまうという主訴で、毎週五〇分、自由連想設定の精神分析的な心理療法を開始した。
私はこのような「主訴」にひどく不穏なものを感じます。「精神分析的」ではないカウンセリングではこれをどうとらえるのかは私にはわかりません。
とりあえずは正気とされる行為の中にも、狂気が潜んで見えるのは珍しくありません。人は表面を取りつくろいます。私にしても同じです。取り繕いがひどければ「不穏さ」がにじみ出てしまうものです。
二ヶ月に一度ほどの頻度で、使ってはいけないはずのお金に手をつけ、本物か偽物かわからないようなブランド品をメルカリで買いあさり、数十万単位で金を使い込んでしまうことは変わらなかった。彼女は別人のように不機嫌な様子で「またやってしまった」とその事実を報告し、「終わったことは話しても意味がない」「そのとき何を考えていたかはまったく思い出せない」と言うばかりで、またスムーズな連想に戻っていくのだった。
この「数十万単位」を「十数時間」に、「本物か偽物かわからないようなブランド品」を「虚実入り混じったネット記事」に書き換えれば、似たような「主訴」があちこちで訴えられているのを一度ならず耳にしたはずです。
何度目かの使い込みが報告されたあるセッションで、彼女は「ここに来ていてもお金を使い込んでしまうことは変わらない。来ても意味がない。話すこともない。だからもうやめる」と吐き捨てるように言って、終了時間前に帰ってしまった。その日のうちに入電があり、「話すこともないから来週は行かない」と語ったが、私は来週も変わらず待っていると伝えた。
私は残念ながら精神分析の訓練など受けていません。だからここで「来週も変わらず待っている」とだけ伝えられるとは、自分だったら思いません。
しかし「来ても意味がない」には反応します。彼女は「意味のあることだけがしたい」のでしょう。ライフハックでもタスク管理でもおなじみの価値観です。
「ダラダラとSNSを見ていたくない」「有意義な時間の使い方をしたい」「炭水化物のような意味のないものを食べずに野菜とタンパク質だけを摂りたい」と多くの人が一様に、しかもこんなことを切実に語るのです。
「意味があることだけをしたい」彼女はなぜか「意味のないものを大量に買いまくる使い込み」がやめられません。「意味のあることだけをしたい」ライフハッカーが「ゼロ秒にしたいムダなネットサーフィン」にときどき膨大な時間を注ぎ込むようにです。
その翌回、彼女は姿を現したものの、五〇分間、一言も発することはなかった。全身に力が入り、怒りを抑えていることは明々白々であった。
さらにその翌回、時間通りに現れた彼女は、何事もなかったかのように連想を開始した。私が「あなたはここでも、私と表面上のよい関係を維持するために、自分の気持ちを蔑ろにして、なかったことにしていますね。しかし、そうすることであなたは寂しくなる」と解釈すると、彼女はみるみる顔を紅潮させ「そうですよ! いい関係を築こうとしちゃいけないって言うんですか? じゃあ、あなたを責めつづければいいんですか? そうしたら私はお金を使わなくなるとでも言うんですか! ふざけないでよ!」とまくし立てた。
私たちは「意味のあることをする」のにはこんなにも熱心な一方で、つまり時間やお金を「意義あるところ」に集中させて幸せな人生を築くのに熱狂するにもかかわらず、自分の本当の気持ちなどは簡単にソデにします。
「本物か偽物かわからないようなブランド品」が買い物リストに載ることは決してないでしょう。「ムダなショート動画をダラダラ見続けること」がスケジュール帳に載るはずがないわけです。
しかし「精神分析的心理療法」を受けてまでやめたいのにやめられない行為です。やりたい気持ちがゼロとは考えられません。
それを「なきもの」にしようとするから、むしろ「あるのだ!」と思い知らされるのではないでしょうか?
終結にあたり、彼女はこう言った。「あのとき、先生が来週も待っていると言ったことの意味が、今ならわかります。どんな私も、私なんですよね」——
「良い時間」を使う自分だけを自分と思って、そうでない「ダメな時間の過ごし方」をしようとする自分を排除しようとすると、まずうまくいかなくなるものです。
たぶん、そんな人間は実在できないからなのでしょう。