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怖いと思う相手はなぜ怖いのか?
タイトルはあまり意味がない。
しかしわたしたちはこれを知りつつもなかなかその知見を生かせない。
相手のことを怖がっている間は怖いのだ。
しかし「怖がらない」のにはかなりの勇気を要する。
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これはかなり極端な事例だ。なにしろこの「父」は『ど根性ガエル』の作者であり父親としてはなかなか「とんでもない人」である。
それでも、実際には父親がこの1%くらいしか「怖くない」としても、四〇歳になっても「本音を父親に言えない」という人はいるのではないか。
怖いと思うこと自体がすでに「罰」なのだ。
殴られなくても怒鳴られなくても叱られなくても、ただ「何かを言うのが怖い」と感じたときにはすでに罰されている。
人を罰するのは「罰されるべき人」に「自分が悪かった」と思い知らせるためである。
これを逆にすると「自分が悪かったかもしれない」とわずかでも思うというのは、すでに罰されつつあるということになる。
罰の予感に脅えるというのは、きわめて有効に処罰が働いた結果にほかならない。
四十になっても「本当のことが言えない」のは「父に罰されるのがまだ怖い」というほどの「罰」をすでに受け入れてしまったからなのである。
その「罰」の中には「父を傷つけてしまったと思い知らされる」というものまで含まれる。