私が想像を手放したいと思うひとつの理由
河合隼雄が「死後は墓に入ってご先祖様になる」と言う人のエピソードを本に書いていた。
そういう生死観をもった人の精神はとても安定しているというのだ。
いつか死んでもご先祖様として子々孫々に敬われ、自分もまた「ご先祖様」として子孫を見守る役割をまっとうするというわけで、ある意味で「永遠に生きられる」から心おだやかでいられる。
むろん現代の科学的な世界観にシフトしている私たちにしてみると、こんな「ご先祖様信仰」はいささかこっけいかもしれない。
死後に子孫を見守ることができるかどうかはわからない。
お墓に入ったからといって子孫に敬われるかどうかも分からない。
科学の世界はキビシイ。
私たちは死んでも「ご先祖様」などになるのではなく、肉体とともに滅び無に帰してしまうだけかもしれない。
人によってはそのような「死」をとても恐ろしく思うことになる。
今はどうにか「生きてある」ことができている。
けれども、死後には想像もつかない「何もない世界」に放り込まれ、それがどんなところかも、どんな感じかも、なにひとつ分からない。
何もかもが明らかになっているような、この地球上の人生とはあまりにもかけ離れた不気味な世界だ。
私たちはそんな恐怖の「死後の世界」に放り込まれるのをなるべく遅らせようと、健康第一の生活を守り、医療技術を発達させて、長寿を誇るようになったのだ。
しかしいまはまだ「死を先送り」することはできても、永遠に生きるわけにはいかない。
未来には必ず恐怖のXデーを迎えることになる。
この課題には昔から多くの人が悩んできた。
手塚治虫もそうだった。
彼は若いころには死ぬのをたいへんに恐怖し「苦しんで苦しんで、苦しみ抜いて死ぬのが人間の死だと思っていた」と本に書いている。初めは漫画家ではなく医師になろうとしてのも、そうした死生観と関係があったのかもしれない。
その手塚がちょうど医学生としてインターンの時代に、現実に死にゆく人を目の当たりにする。