新刊『香港とは何か』(ちくま新書)のあとがきを全文公開します。
ちくま新書から『香港とは何か』を刊行しました。8月10日、本日の発売です。この本を書いている間も、香港情勢は悪化の一途を辿っています。今日もアップルデイリーの創業者、ジミー・ライが逮捕されました。香港の見通しは明るくありません。しかし、この本のあとがきには「香港は、終わらない」と書いていて、執筆動機や香港への思いに触れています。いま日本では新型コロナウイルスの感染拡大のため、リアル書店に行けず、本を手にとってあとがきを読んで買うかどうか決めてもらえない人も多いはずです。出版社の理解を得て、あとがきを全文公開させていただきます。本書に関心を持った方にご一読いたければ嬉しいです。
(以下あとがき本文です)
冒頭に書いた初めての香港訪問の話には、続きがある。
広州で聖書を渡したあと、私たち一行は吉林省の長春にある吉林大学に行き、中国語の短期研修を受けた。帰国は再び香港経由だった。数日間の滞在の間に、香港にいた日本人の知人に、九龍の「廟街」の占い師のところに連れて行かれた。沢木耕太郎と同じく、廟街の洗練を受けたわけである。
廟街の名前のもとになった媽祖を祀っている天后廟のそばに、たくさんの占い師が露天でテーブルを並べている場所がある。私が座らされたのは「当たる」と評判だという黒ぶちのメガネをかけた初老男性が占うテーブルだった。近くから広東オペラのにぎやかな鳴り物が聞こえた。名前と生年月日、生まれた時間を書かされ、「何が知りたい」と訊かれたので、「将来どんな仕事をしているのか知りたい」と尋ねた。
占い師は中国語では算命師と呼ぶが、確かにあのときの私は、それからの人生で待ち受ける運命が知りたかった。占い師は分厚い本を取り出してパラパラとめくってメモにあれ これ書き込んでから、「あなたは作家になる」と確かに言った。
占い師はたいていメンタリストなので、私が頭でっかちな学生に見えたから、喜ばせて あげようと、そんな答えを思いついたのかもしれない。でも、そんなことはどうでもよくて、私は占い師の「予言」の通り、文章を書く仕事を選んで、今まで三〇年ほど続けてきた。きっと今後も続けていくだろう。文章を書くことは天職のように思ってはいるが、それなりにしんどいし、だんだん自分の才能の限界みたいなものもわかってくるので、心が折れそうになって、もうやめようかなと考えることがないわけではない。そういうときに何となく占い師のことを思い出して自分を励ましている。
だから、この占い師にも、廟街にも、香港にも、私は恩を感じている。
香港についての単著は初めてとなる。香港について、いつか本を書きたいと思っていながら、あの占いの日から三〇年以上が経過した。その間、香港は天安門事件に揺れ、英国から中国に返還され、雨傘運動があり、抗議デモが起き、いまは国家安全法が導入されようとしている。香港の運命を占うつもりでこの本を書き始めたが、そんな簡単なことでは なかった。香港の未来は五里霧中の彼方にある。
この本は当初、二〇一九年冬ぐらいの刊行を目指していたが、抗議デモで、事態を見極めるまで出版ができなくなった。仕切り直しで二〇二〇年六月に出版しようと決めたが、新型コロナウイルスの影響で、香港渡航ができなくなった。取材の総仕上げに、会いたい人、訪れたい場所がまだ残っていたので、再度の延期を決めた。しかし、新型コロナウイルスの感染防止を理由に外国人の入境を禁じる措置が、九月の立法会選挙の終了後まで続くことになった。この措置は外国メディアの報道を抑制しようという政治的目的を感じさせるが、いずれにせよ、香港訪問は当分困難だと判断し、追加取材に見切りをつけ、八月の出版に切り替えた。
思いがけず浮上した国家安全法のことを内容に盛り込むことができたのは出版の遅れによる不幸中の幸いだったが、本書のタイトルを当初想定の『香港とは何か』から『香港に希望はあるのか』や『香港の絶望』に変えようと思ったほど、国家安全法の導入は大きなインパクトがある。香港を香港ならしめてきた多くの良さが失われるおそれが高まっている。
しかし、いままでがそうであったように、常に悲観論を覆してきた香港の底力を信じたい。産経新聞は国家安全法導入の七月一日、一面トップで「香港は死んだ」と書いたが、香港は死なないし、終わらないと信じたい。だから、タイトルは変えなかった。我々が日本からできることは、関心を持ち、意見を表明することだけだ。そして香港の問題は他人事ではなく日本にもつながっている。その価値観をもとに書かれた本書が、日本社会の香港理解に貢献できることを願っている。
二〇一六年に出版した『台湾とは何か』と、一九年に出版した共著(国籍問題研究会)の『二重国籍と日本』に続いて、編集を担当してくれた松本良次さんにはお礼を伝えたい。安定した丁寧な仕事ぶりに、いつも助けられている。私も末席に名前を連ねている香港史研究会の皆さんが惜しまずにシェアしてくれる香港に関する知識に本書は多くを負っている。香港への思いに溢れた先人の著作の力を大いに借りたことは言うまでもない。文中で 紹介できなかったものは巻末に参考文献として挙げさせていただいた。そして、私の香港入門の導き手になってくれた香港在住の伝導師、故・木村詔子さんの墓前に、この本を献げたい。
最後に、取材に協力してくれた方々を含め、香港の皆さんに深い感謝と「香港加油、香港人加油」というエールを送り、ひとまず擱筆したい。
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