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【小説】猫耳メイドのお仕事 3

 前を歩くシュテンの小さな背中には、僕に対する警戒心など微塵も存在しないようであった。檻から解き放たれた後は、何かしらの拘束を受けることもなく、ただ、まっすぐ続く白い廊下を歩かされるのみであった。この世界の建物によくある、空間認知を歪ませるほど途方もなく長く、そして上下左右さえ分からなくなるほど白い廊下。初めて来た人間なら発狂する者もいるかもしれない。二人の足音は空間にわずかに反響しては消えていく。全てを包む白い壁の奥には、深海にも勝る圧の神聖を感じる。ここは、誰かの神聖域の中なのだろう。集約され、洗練されたこの神聖を正しく感じ取れる者なら、この中で抵抗しようなどとは思わない。ただ大人しく進むほかに道はない。
「随分遠くにいたんだね、僕は」
 虚しい環境を少しでも埋めようとシュテンに問いかけるが、ほんの一瞬こちらを振り向いた少年の青い瞳の奥に静かな怒りが見え、楽しい会話は早々にあきらめることとなった。
「ここはトロノアの地下かな。どの塔の気配とも違う。おまけに神聖で派手に空間が歪んでいる。この後の修復が大変そうだ」
 コツコツと二人の足音が慰め程度に響く。
「なかったことにするんだろう。さっきの部屋も、この廊下も、僕が関わったもの全て」
 シュテンの神聖は、少しも揺るがない。それが少し寂しかった。もう既に僕の処遇は決まり、遂行は始まっている。
「シュテンは今の塔主の中では一番強いからね。それで僕のお迎え係に選ばれたのかな。流石だね、シュテン」
 言い終わる前に、形のない刃物に似た気配が喉元をかすめた気がした。シュテンの歩く速度が、少しだけ遅くなる。
「あんたがいれば、この世界はもっと変えられたのに」
「そんなことはない。僕のは全て夢物語さ」
「あんたの描くその夢物語は現実世界を深く侵食する。そうしていつか、空想は現実になる。おまけにあんたの神聖は途方もなく深く広い。最も神に近い存在だった」
「……」
「だから、駄目になった。近付きすぎたから」
「それ以上言うと、今度はシュテンが怒られるよ」
 再び振り向いた彼の瞳は、一瞬だけ悲しみの色を見せた。進むだけだった歩みを止めて、僕に向き合う。そこには、何か得体のしれない物に怯える無力な少年の姿があった。シュテン・コスモス。神聖は『叡智』。概念系の中でも万能に近い。世界の真理にも、いずれ到達するだろう。そんな彼には、僕の今の姿を見せる必要があった。今も不気味に震える黒い翼と、濁った神聖。これは見せしめだ。規則を守れ。白く、ただ白くあれ。さもなくば、
「僕らは、どうなるんだ」
 震える少年の声に救いはなく、その背で静かに見えない扉が開いた。その先に出迎えの者が一人。この世界では珍しい、黒を基調とした燕尾服を身にまとった初老の男。白翼の気配はないが、主から分けられた神聖はそこらの人間を圧倒するに事足りる。
「シュテン様、ご苦労様でございました。我が主リオ・アスプローデ様、そして、塔主の皆様既にお揃いでございます」
 この世界『シエル』の主——リオ・アスプローデの第一従神であった。彼は僕の黒い翼を一瞥すると、シュテンに恭しく語り掛ける。
「シュテン様は会議室へ。あとは私にお任せを」
 その言葉を受け、シュテンの神聖は再び波のない静かな水面へ戻ってしまった。その直前、最後に落ちた感情の一滴は、ガラス細工のように砕け散った。もう一瞥も与えてくれなくなった少年の背を、僕は祈るように見送るしかなかった。

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