なぜ立憲民主党の代表選に根源的な失望を覚えるのか
立憲民主党には、ことあるごとに、「右側にウイングを広げなければいけない」とおっしゃるご仁が多数おられる。そしてそう宣う方々は、決まってこうおっしゃる:「右側にウイングを広げて国民政党にならねばならないのだ!」と。
そしてどうやら、この「国民政党」なる言葉は、2024年の立憲民主党代表選挙におけるひとつのキーワードになっているようだ。曰く「真の国民政党として、自民党にかわる政権を担うのだ」、曰く「国民政党として責任ある行動を」などなどと。
だが、端的に言って、これは言葉の誤用だ。
「国民政党」という言葉は本来、「階級政党ではないこと」を意味する。つまり「階級闘争を党是としない政党」ということだ。その意味において、立憲民主党も、過去の民主党・民進党も、一度たりとも「国民政党でなかった」ことなどない。生まれた時から今に至るまでずっと「国民政党」だ。
余談ながら、日本共産党も「もはや」、「階級政党」ではない。日本共産党が階級闘争を放棄したのかどうかは知らないが、綱領を読む限り「労働者階級を代表する」とは書いておらず(だからこそそれが、新左翼各セクトからの批判の的となっているが)、その意味において、日本共産党も(さえも)語義からいえば、「国民政党」と言える。
この「国民政党」という言葉のみならず、「政党のあり姿」を指し示す言葉には、他にも、「大衆政党」「包括政党」「幹部政党」などなどさまざまな言葉がある。これらの言葉はそもそもテクニカルタームであるし、しかも、西欧の政党を念頭に置いて定義されている言葉であるため、一般に馴染みの薄い言葉ではあろう。しかしどんな分野のテクニカルタームでもそうであるように、これらの用語は、物事をいささか乱暴にではあるが「腑分け」し「分類する」際に、極めて有効に利用することができる。
もちろんどの政党もこれらの用語を用いて綺麗かつ杓子定規に分類しきれるものではない。当然のように、どの政党も、さまざまな側面を持っているし、時と場所、そして何よりも観察者の視点から、「見える姿」は変わってくるものだ。
それでもあえて、日本の国政政党をこれらの用語を使って分類すれば、日本には「国民政党でない政党」はもはや存在しないと言っていいだろう。先にふりかえったように日本共産党でさえ「階級政党」といいがたく(少なくとも綱領からは)「国民政党」と分類するしかない。他の政党をみてみても、少なくとも国政政党で自らを「特定の階級の代表だ!」と規定する政党はないはずだ。従って、もはや日本の政治の世界においては、さまざまな政党を「国民政党であるのか・ないのか」と分類することは無意味だ。
ただ、「包括政党であるのか・ないのか」「幹部政党であるのか・ないのか」という分類はできそうである。
「包括政党」とは、「出来うる限りの広範な支持を得るために、総花的な政策を用意し、純化路線を採用せず、そのために、ときには思想的・論理的に相矛盾するような理念を掲げさえするる政党」ということだ。
一方の「幹部政党」とは、「有力政治家や名望家たちの同好会的な集団で、その集団の意思決定は、有権者の意向や世論の動向と時には遊離してしまうものの、同好会に集まった個々の有力政治家や有力者たちの名望や政治テクニック、そして何より強権発動で、政局を乗り切る政党」と認識しておけば間違いがない。
この定義を踏まえると、日本の国政政党は、ほぼすべて「包括政党」であり、かつ、「幹部政党」のミックスであると分類できそうだ。
この「包括政党」と「幹部政党」のミックスとして真っ先に念頭に上がるのが自民党だろう。自民党の政策とは常に総花的であるし、その政策パッケージ(あれをそう呼ぶのであればだが)は、どの政党が用意するものよりも広範な有権者をカバーしているように少なくとも表面上は見える。その意味で、自民党は「包括政党」と分類できる。一方で自民党は、「派閥政治」という言葉に象徴されるように、常に「有力政治家」「名望家」たちの合従連衡と衝突の連続で運営され続けている政党でもある。その側面からみれば、自民党は語の全き意味での「幹部政党」だ。従って、自民党は典型的な「包括政党と幹部政党のミックス」と分類できる。
野党第一党たる立憲民主党も、全体としては自民党と変わらない。なるほど確かに立憲民主党は自民党のようなしっかりとした「派閥」はないし、その「派閥」の相剋が大きくクローズアップされたこともない。「派閥の相剋」が「政局」に発展するほど、政党全体の規模が大きくなったことがない…というのが有り体なところではあるが、まあ、そういったことはない。とはいえ、目下展開される代表選で「小沢一郎が誰を支援する」だの「どのグループが誰を支援する」だのと取り沙汰されるように、「幹部政党」の色彩を濃厚に漂わせているのも事実ではある。そして、立憲民主党の政策パッケージも総花的ではありその意味のおいて立憲民主党も「包括政党」と呼べるだろう。そうであれば、立憲民主党も包括政党と幹部政党のミックス」と分類するほかない。
ここで、「包括政党」と「幹部政党」という言葉それぞれの対義語を考えてみよう。
「包括政党」、すなわち「総花的な政策パッケージと相矛盾するような理念を掲げる政党」の対義語として考えられるのは、最近はやりの言葉で言えば「ワンイシューポリティクス」あたりになるのであろうが、政党分類のテクニカルタームでなんとよぶのか不勉強にして私は知らない。そこで、ここは便宜的に「特化政党」と呼ぶようにしよう。念頭にあるのは、例えば、れいわ新選組やN国だ。あるいは、いま立憲民主党の代表選挙に出馬しておられる野田佳彦さんが、立憲民主党への合流を拒むために柿沢未途さんたちと一緒に立ち上げた「社会保障を立て直す国民会議」なる集団も(政党ではなく会派であったが)、看板に「社会保障を立て直す」と唄っているところや、構成員が「立憲民主党みたいなアホリベラルの集団に近づきたくない!」の一点で結びついていたところをふまえると、「特化政党」と呼べるだろう。
「幹部政党」の対義語は明確だ。「大衆政党」である。有名政治家の意思や名望家たちの思惑よりも、党員個々人の意思によって運営される党ということになる。この範疇に該当する政党は、どうやら日本には存在しなさそうだ。
こう考えてみると、日本には、自民党を筆頭に、「包括政党」かつ「幹部政党」は存在するものの、その反対の「特化政党」かつ「大衆政党」が存在しないことに気づく。そして「大衆政党」と呼べる政党が存在しない以上、「包括政党」かつ「大衆政党」も存在しない。
縦軸を「包括政党/特化政党」、横軸を「大衆政党/幹部政党」ととった日本の「政党マトリックス」では、「包括政党」かつ「大衆政党」の象限が完全なる空き家になっているということである。
だが、不思議なことがある。
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