自由な選択のこと1

 私は基本的に、リベラル=フェミニズムを信奉している(ときおり疑問を抱くことはあっても、大きな流れとしては!)。この記事ではそれに基づいて、私の意見について述べていきたいと思う。もしこの記事を読んでくださった方がいたら感謝申し上げたい。この一大学生が理論を振り回すだけの数千字を読むために貴重な時間を使ってくださったのだから!
 人間の意思という最後まで残る自然からの命令こそ、人間を生き延びさせ、文明を作り、革新し、そして維持してきた偉大なものであろう。もちろん、革新だけを望むのではない。現状を維持するという自由な意志に基づいた選択をすることも当然自由であるべきだ。各自が自由意志のもとしてきた選択が、重なり合って人類という種の意思を作るのだろう。岩清水の一滴が寄り集まって大河をつくるが如く。つまり、「コロナで死にたくない」という各個人の意思は、寄り集まって「人類は滅びたくない」という種の意思を形成する。私は人類が滅びることをよしとしていないので、みなさんどうか気を付けてください。家にいてください。仕事で外出せざるを得ない人はできる対策をしてください。あと、まだ「自分一人くらい外出しても、遊びに行っても大丈夫」と考えるような人は、もう何も考えなくていいので各省庁もホームページにアクセスして、書いてある通りに行動してください。アクティブバカほど集団の不利益になるものはありませんし、その意思が「滅びたくない」という種の意思を妨害していますから。まあ私以外の皆さんが滅びたいのであればもう仕方のないことですが。外出一日、滅亡の元!
 
さて、戯言はこの辺にして。


朝起きてTwitter(病身の友人を見舞おうとしたのである)を開くと、タイムラインにこんな記事が載っていた。

https://twitter.com/glieeeee/status/1254393904524177409(最終閲覧日2020年4月27日)

岡村隆史氏の「オールナイトニッポン」での発言を録音したものだ。文字に書き起こすとこうである。

「今は辛抱。『神様は人間が乗り越えられない試練は作らない』って言うてはりますから。ここは絶対、乗り切れるはずなんです。コロナが収束したら、もう絶対面白いことあるんです。収束したら、なかなかのかわいい人が短期間ですけれども、お嬢(風俗嬢)やります。短期間でお金を稼がないと苦しいですから。3カ月の間、集中的にかわいい子がそういうところでパッと働いてパッとやめます『え? こんな子入ってた?』っていう子たちが絶対入ってきますから。だから、今、我慢しましょう。我慢して、風俗に行くお金を貯めておき、仕事ない人も切り詰めて切り詰めて、その3カ月のために頑張って、今、歯を食いしばって踏ん張りましょう」

そして、それに対して、(風俗業を)「自分で選んで働いているのだから、いいじゃないか」というツイートがあった。
寝台から降りながら、寝ぐせのついた頭でこう考えた。
「それは本当に自由な選択なのだろうか」と。


まず自由とは何かについて述べていこう。自由というのは、じつに様々な解釈がある。キリスト教徒であれば「神に従うことが自由である」というかもしれない。マルクス主義者なら「ブルジョワジーに支配されないことである」というかもしれない。パターナリストなら「自由より、自由を制限されても安全に守られていた方が幸福である」というかもしれない。
カントは現実的な条件に影響されないことを自律と呼び、またそれこそを本当の自由とした。それを考えると、貧困や福祉の不十分などの悪辣な環境ゆえに生きるためにその選択をとらざるを得ないというのは他律的であり、自由な選択の結果とはいえないのではないか。
法律の考え方において、自由とは2種類存在する。国家からの自由と、国家による自由である。国家からの自由。これは一般的に想像される自由とかわらないであろう。国家により自由意思を妨げられないことをさす。しかし、本当にこの状態は万人にとって自由だろうか。言いかえれば、国家以外に自由意思を妨げるものはいないのであろうか。そんなわけはない。貧困、差別、障がい、搾取構造など、障害物はいくらでも存在する。その構成員の自由意思を障害物から守るために存在するのが国家である。そして税は権力者の贅沢のためでもなく他国にばらまくためでもなく、権力の本来の目的のための資金として、構成員、つまりその権力による受益者により可能な負担に応じて(目的を果たすための資金集めが目的に反していては全く皮肉ではないか!)税が納められる。つまり、究極的には国家の目的とは構成員の自由意思を国家そのものからも、他の要因からも守ることにあるといえる。例えば今ならばコロナという国民の自由意思を阻害する要因(外出しない、というのは自由意思の結果ではなく、コロナに掛かりたくないためである)を排除することが国家の役目となる。

ここで述べる自由については定義された。今回は風俗業への従事について論じるのだから、双方の自由意思の発現としての売買契約についても定義しなくては片手落ちだろう。まず、両者の合意が得られ売買が成立しても、その対価については正当に払われるべきであり、売り手の合意する量にならない以上それを拒む権利を持つだろう。しかし、風俗のHPでの値段設定を見ていると、売り手の合意する(無論自由意思に則ってである!)額で本当に売買されているのだろうかと考えてしまう(無論対価の額が増大することは一消費者としては不利益になるが、私はそれ以上に正当な対価が払われていないことに怒りを感じるのである!)。ただ、それについては労働問題の範疇になりフェミニズムの語るべき問題ではないことからここではこれ以上発言しない。
一方、対価を払うのだから全女性(あるいは男性その他も)はその所有せる体その他を売るべきであるというのも間違っている。モノ甲とモノ乙の交換は両者の自由意思に基づく合意により交換されるべきである。よって買い手がいくらでも対価を出すことに合意していても、売り手の合意がない以上売買は成立しない。例えばある日突然一億円やるからいますぐ住んでいる家を売れと言われたら嫌だろう。私は嫌だ。ラッキーと思う方もいるかもしれないが、つまり交換不可能なもの(と当事者が考えるもの)に勝手に値段をつけることは許されないし、不可能である。なぜなら対価の量にかかわらず、交換することを拒否するという自由意思を持っているからである。


 さて、ここまでが私の意見の前提条件である。氏の発言とそれに対するツイートについて考えていきたい。氏の発言のように、COVID-19感染症流行の影響により困窮した女性が、生きるため風俗業に従事する。この選択は自由意思によるものだろうか。
 もちろん、自律的な意志に基づいて風俗で働くことについては問題ない。その体は本人の所有物であり、当然それを扱う権利やそれから得られる利益は本人に帰する。本人の自由意思の元にその所有物を売ったとしても問題ないだろう。どこかの誰かが「働くより体を売った方が楽に稼げる」と考えて風俗業に従事し、搾取されることもなく対価を得た。家父長制下においては父あるいは(未婚者であれば未来の)夫の所有物を勝手に売ったということで売春は問題になったが、もはや女性の体は本人の所有に帰する。リベラル=フェミニズムの観点から言えば何の問題もない。他の問題はあるのかもしれないが、それについてはこの記事では言及しない。

 にもかかわらず私が女性が風俗業に従事することを性的搾取であるととらえるのは、それが本人による自由意思のはたらきによる選択だと考えられないからだ。学校にいくため、生活するためなど、その原因から逃れる代替手段のないために風俗業に従事せざるを得ないというのは自由ではない。それは自由意思がなんらかの要因により阻害されている状態である。この状態を改善するのは先に述べたように権力の役目である。なぜその役割が果たされていないのだろうか。
 「男の都合社会(前回の記事を参照されたし)」においては優先されるのは常に男性側の利益である。女性側の利益については勘案されないか、されたとしても男性の利益に反しない範囲にとどまる。ここでは両者を表すのに男性、女性という言葉を使うが、フェミニズム以前の社会では被搾取者=女性、搾取者=男性であり、フェミニズムはそれを是正する運動であったことを鑑みこう述べさせてもらう。例えばとある家族Aが困窮した際にまず売られるのは女性Aであり、それにより男性Aは生活の糧という利益のみならず、男性全体として金銭によりその女性の性的自己決定権を得られるという利益を作り出す。このとき、女性Aの人生すべての自由よりも男性Aの生活の維持と男性全体の性的快楽が優先されることになる。それを公認・社会体制化したものが公娼制度である。この体制下での遊女や芸子の悲話というのは「悲しいことだが、それを許容する女性はすばらしい」として搾取構造を拡大再生産する装置であると考えられるのではないだろうか。
 人類はフェミニズムという思考の道具を手に入れたことでこの構造のゆがみに気づき、修正を図り始めた。その結果社会通念上男性の利益は女性の利益に優先されるべきであるといった不公平な思想は当然正当と考えられないであろう。しかし、今だに女性の自由意思に基づくという欺瞞に隠れ、この構造は潜んでいる。
 なぜか。
 そのことで利益を得ているものがいるからである。この搾取者をここでは「狡猾な受益者」と定義しよう。フェミニズム発生以降の状況であり、ここでは被搾取者=女性、搾取者=男性であると限らないからである。被搾取者についてはここでは女性の問題を検討しているだめそのまま女性とする。もちろん、「狡猾な搾取者」による搾取が女性のみを被害者にしているわけでもなければ、「狡猾な搾取者」側に立つ女もいるだろうことはご理解いただきたい。
「狡猾な搾取者」が権力側にもいる以上、その構造は維持され隠蔽される。水晶宮(注:万人の自由意思に基づく搾取のない社会の意)に入るよりも、歪んだ「男の都合社会」にいる方が有益であるとする考えが蔓延っているかぎり、この搾取構造はなくならないだろう。
 さて、話を当該氏の発言に戻そう。女性が自律的な意志を持つこと能わすして、「狡猾な搾取者」に搾取されるようになることが自身の利益になり、またそれを望んでいるということを公共の場で(ラジオの放送中というのは充分に公共の場でしょう!)発言したということ。これは万人の自由を尊重しそれを基礎に成り立つ現代社会への挑戦であり破壊宣言である。名誉とは社会にどれだけ貢献したかによって計られるのであるから、岡村氏の名誉はこの発言により失墜した。
今後、氏が自身の行動により名誉を復活されることを祈る。



フェミニズムというより哲学論理をこねくり回した文になってしまった・・・。とはいえフェミニズムはお気持ちではなく近代哲学の論理でできてますし、間違ってないと思うのです。

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