たからものたち―あるいは学芸員の(̥無精卵かもしれない)卵によるエセー

 私は古い物を愛している。新しい物にはない美しさ、魅力がそこにはある。10年寝かせたワインの味わいがまろやかになるように、昔の人の言葉が含蓄をもって受け止められるように、生の臭みを脱ぎ去り、ウイスキー色のベールを帯びて。もちろん、利便性や効率という点では決して最新のモノの方がすぐれているのだろう。どんなに古物を愛好していても、最新型のIphoneよりもエニグマの方が便利だと言う者はいないように。古い物は不便が多い。
 古い物の価値とはなんだろうか。それは他のモノ比較した際の時間の特異性によると思う。備蓄不可能な時間という資源は万人に平等だ。どんなにお金を積もうとも手に入らないのが過去であり未来だ。未来のモノを手にすることはできないが、一方過去のものは適切に管理すれば手にすることができる。その管理―つまるところ資料保存という分野―の技術を身につけておけば、私自身で愛すべき古物たちを、だれかの手を借りずとも世話することができるだろう。その技術を、すっかり身に着けてしまえるとは思っていない。それでも、基本的な考え方や技術があれば、この国の保証された教育権としての社会教育により、図書館に行って調べることもできる。しかし、まったく触れたこともない分野に本一冊を武器に分け入っていくのはあまりにも難易度が高い。先達の地図や案内があれば、神社のふもとで帰ってしまわずに済むだろう。これらの知識に、私はこれから資料保存技術を学ぶ上での地図としての役目を期待する。
 それに、その古い物の価値は美しさだけだろうか。過去の長い時を埃といっしょに降り積もらせてきた古物たちは、その身のうちに膨大な情報を内包している。モノのもつ知を受け取り社会に翻訳する者なしには社会は新たな知識の供給をなしえない。確かに、今すぐにお金にはならないかもしれない。しかし、知はインスタントラーメンではないから、欲しい時にお湯を入れても使えたりはしない。なにか起こったときに慌てて用意していては間に合わないし、なにが必要になるかなどわかるはずもない。コロナ禍が起こることをだれも予測できなかった(予言者と言われる人でさえも!)し、ウイルスの性質だって他の地道な研究あって比較ができるのだ。無駄な研究だった―そう言えるのは人類滅亡後だけだ。そうなってしまえば弥陀だったかどうか検証することもできないが。それに誰も知らない新しいことを知るのは楽しい。こう言ってしまうと身も蓋もないが、私は人生を面白おかしく生きたい。お金は彼岸に持ち越せないし、盗まれてしまえばそれで終わりである。しかし思い出や、知識や、技術は盗まれることのない財産である。たとえ奪ったとしても、略奪者がそれを手にすることはできない。古い美しいものたちに囲まれた職場で、地道で何のためになるのかよく分からない研究がしたい。有意義に、無意味なことをして生きていきたい。

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