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ある人の死が受け入れられない
特に仲がよかったわけではない。
数年間、直接、お会いしていない。
やさしく、気遣いができる気のいいおっちゃん、
知識や経験をひけらかさないおっちゃん、
うーん、うまく表現できないな。
上の表現に、帽子をかぶった笑顔の写真を加えてみれば、なんとなく伝わるかもしれない。自分で描かれた絵と撮った写真を投稿されていたので、その投稿をたくさん見れば、人となりが伝わるかもしれない。
お会いしないまま数年経ったので、急に「亡くなりました」という情報だけ与えられても、何の現実味も感じない。過去に接した出来事をうっすら思い出せるだけ。そんな日常に今もいる。
何が原因で亡くなったのかも知らない。
ご病気だったとしても、その経緯を把握していない。
死に至る過程が見えず、死の原因がわからず、過去の出来事から何の情報の更新もなければ、誰でもそう感じるのだろうか?
「ご冥福をお祈りいたします」投稿がチラホラと上がる。
この人たちは本当にこの人の死を受け入れているんだろうか?
投稿している人の中には、私なんかよりもっと近しい人もいるし、私より最近までリアルやSNSでやりとりしてた人もいるだろう。死の原因も知っているのかもしれない。
身近な人、大事な人、卒業後まったくつながりがなかった同級生、いろんな人の死の報に接してきたけど、特別仲が良かったわけでもない気のいいおっちゃんの死の報がまだ受け入れられない。理解できない。
受け入れようと努力することもしたくないし、彼の死の情報を集める気もおきない。ただ「ご冥福をお祈りいたします」投稿を見るたびに、少し気持ちが悪くなるだけだ。私の中で何の変化もしていない相手と私との関係を無視して、勝手に殺すなよ、という気分が少しあるのかもしれない。
人の死について、あまり考えたくないなーと思ったのは初めてかもしれない。そうか、死について語るというのは、重いことなんだな。軽くはないことなんだな。
これまで、自分が解決したい問題(自殺する人を減らしたい)を人に話すたび、「人の死を想え」と他人に強要してきたかもしれない。でも、(自分の中で死んでもいない)人の死を考えるのは億劫だ。仮に今の自分に「人の死を想え」というのは酷だなぁ。きっとまだ数日は、人の投稿を見て、腹を立てたり、気分が悪くなったりするんだろう。今は「人の死」について考えたくない。
これから先、どうしても押し付けたくなることもあると思うので、他人に「人の死を想え」ということを言ってしまうことはあるだろう。私の人生にとって大事な問題だから。避けられない問題だから。でも、今の私の気分のような人もいることは覚えておこう。
彼はまだ死んではいない。どっかで食事する機会もあるだろう。コロナ禍が明けたら食事しましょう。横浜までは出ていきますよ。
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