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なぜ隣の芝は青く見えるのか。そこそこの幸せをちゃんと噛み締めたい
今の自分に満足していないと自分の持っていないものを持っている人をうらやんでしまう。私はあの人より恵まれてないのでは? と感じてしまう。自分の人生で満たされてこなかった様々なことが、今満たされているのに、不満を感じてしまっている。
なぜ、自分に持っていないものを見つけて、人をうらやんでしまうのだろう。
なぜ満たされないことに注目するのか?
1.
マズローの欲求の階層にあるように、食べることはできていても、最上位の自分の成長欲求が満たされていないのかもしれない。自己実現できていないからかもしれない。
2.
人は、絶対的な評価はできなくても、AとBを比べることは得意だ。もともと他者の見えやすいところ、自分が見たいと思ってしまっているところを見つけて、比較をしてしまうのかもしれない。
3.
ヘドニック・トレッドミルが唱えたように人は快楽順応する。どんなポジティブなことであっても、それが続くと慣れてしまう。同じ刺激では快楽は続かない。
幸せをかみしめるにはどうすればいいのか?
1.
自分がずっと右肩上がりに成長していると錯覚できないだろうか? 毎日続けている習慣、短歌、毎日note、読書など記録して、見える形にするのはどうか。これは、時々noteで書いているな。今の私は、これじゃないかもしれない。
2.
人が何かと比べることが得意なら、自分がうまくやれてること、満たされてることを、満たされない人と比べるのはどうだろう。あまり品のいい趣味ではないけれど。これはちょっとやってしまっているかもしれない。SNSで不幸自慢をする人の投稿を見て、この人よりは幸せかも、と思っていることが時々ある。でも、強く不幸を感じているる人の投稿には、社会に対する不満という毒を含む。こちらの気分も荒んでしまう。
できた人間なら、人の不幸をダシにしなくてもいいだろうがそんなできた人間ではない。現実に存在する友人と比較して、マウントを取るまではいってないのが救いだ。さて、誰か、都合よく私のちょうどいい比較対象になってはくれないだろうか。
3。
慣れてしまうのは、人間の特性として仕方がない。どんな幸せにも慣れてしまっているのだろうか。まず、自分が満たされていると感じることを書き出してみてはどうだろう。慣れは避けられないかもしれないが、幸せを感じることすべてに慣れを感じているわけではないだろう。
仕事がある
楽しく感じる仕事ができている
仕事の知識がどんどん増えて体系立てた理解につながり、仕事でも活かせている
配偶者がいる
愛する息子がいる
なんとか養育費の支払いができている
嫌なことがあった時、閉じこもれる部屋がある
毎日続けることが望ましい習慣を持っている
食べたいものを自分で作ることができる
・
・
幸せを感じることを書いて貼り出しておこう
幸せを感じる要素を書き出して、目に見えるところに置いておけばいいかもしれない。こういう面では、周りの誰それより恵まれている(比較)と感じることもできるし、忘れていた幸せ要素を時々思い出せる(慣れていない要素を思い出せる)のではないだろうか。他人の見え方に都度都度、振り回されずに済むだろう。
よし、どこかに書き出して、貼っておこう。
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