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謙虚でいることの難しさ。年を重ねても優しくあるためには

某SNSに以下のような投稿をした。

高齢者になった時、傲慢な態度を表に出さずにいられるだろうか。
同年代でも、そういう見え方をする人が出ている。同世代への横柄な言葉がすでにそう見えてることに気づいてない。
私は昔から、一部の人には傲慢な態度を出してしまうことがあるので、とてもこわい。謙虚に。謙虚に。下手に。下手に。

この投稿に、私の誕生日に対する「おめでとう」並みに反応があった。

偉そうな人が嫌い

偉そうな態度で周りの人に接する人を見て不快な気分になったことが、皆さんにも、一度や二度はあるだろう。あぁはなりたくないと思う人も多いのだろう。同時に、どんな人でも、「それはマナー違反だろう」「そっちが間違ってんじゃない?」と感じることも日常にあるはずだ。

私は普段、それを口に出さずに済んでいる。外出先の店で店員さんの態度が気に入らなくても、それはたった一回だけのことだし、仕事で気に入らないことがあっても、ちゃんと話してみればお互いに誤解をしていることもわかるだろう。

何も自分の正義をすぐに振りかざす必要はない。

でも、年を取って脳の機能が低下したり、目や耳が悪くなって聞き取りにくくなり、イライラする機会が増えると、ちょっとしたことで怒り、それを抑えることができなくなるかもしれない、と思う。

それはとても怖いことだ。

怖いと思うのは、そういう高齢者をとても嫌なものとして見ているせいだろう。ゾンビや醜く汚い獣を見るように。そんなに嫌だと思っていても、普段隠しているだけの怒りを加齢とともに抑えられなくなる可能性は否定できない。

すでに偉そうに見えるアラフィフの人たち

一方、アラフィフの同世代には、すでにそう見えてしまっている人たちがいる。自分が正しいと思ったことについて、ちょっとぞんざいな感じで指摘する時なんか、だ。仕事上でも、SNSでも。

軽い口調で、友だちに話すように間違いを指摘する20歳代を見ると、気楽にリラックスして話してんだな、と思う程度で済む。しかし、40歳代後半、50歳代前半は、存在に重みが出ていることに本人が気づいていない。

肩書がある人はもちろんだが、肩書がなくても同じだ。肩書がある人に対して、あるいは、重みがついて見える中年の同期や中年の後輩に、軽い口調で話しかけるだけで、そう見えるからだ。

組織内では、年齢的に下や後輩が多いから、普段敬語を使う機会が少ないというだけで、もう高圧的に見えてしまう。今は、年下の同僚や、年齢が同じ同期についても、敬語で話す人が増えたので、敬語を使わない中年、というだけで高圧的に見えることに気づいてない。

SNSで、本人の同級生に絡んでるだけでも、他人から見れば、「誰ですか? いつも絡んでるあの偉そうな人は?」という見え方をする。

とにかく他人や会社の同僚には、丁寧に、下手に。ということを基本姿勢にしたい。別に揉み手しながらしゃべる必要なんてない。選ぶ言葉をやさしく、丁寧にすればいいだけだ。

ご機嫌でいるためのお手本

先日、日本テレビの「月曜から夜ふかし」を見た。

SNS上では、「人を馬鹿にして笑っている番組が気に入らない」と怒りを覚える投稿を見た。確かにこういうバラエティー番組は減っていくだろう。誰かの評価を下げる、他人を馬鹿にすることで安全に有利な立場から、他人を笑う行為はどんどん淘汰されていくかもしれない。飲み屋街でのロケが多いので、街の収録現場では、実際に、テレビに映せない人、かなりヤバい発言をする人もいるだろう。

でも、編集の目を通過して、テレビに映った彼ら彼女らは、とても明るい。馬鹿にしたような質問をされても、ニコニコしている人ばかりだ。服装や言動で判断すると、生活が楽な層ではない人が多そうに見える。それでも、人生のつらいことを笑い、昨日の失敗があっても、今日は明るくいられる。

イライラしながら、自分の正しさをぶつけるよりは、馬鹿にされても、他人の評価なんて気にせずに、太陽の光の下で笑ってられる人でありたい。

何が賢くて何が馬鹿なのか、私が定義することでもないが、ちょっとくらい馬鹿に見えてもいい。他人の悪口や軽蔑する言葉をスルーし、その日を笑って過ごしたいと思う。周りの人が気楽に過ごせるように。毎日の小さなハッピーを、重箱の隅を突いて、やっと掘り出したハッピーを笑って他人に伝えられるような人に、私はなりたい。


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のーどみたかひろ
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。