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沖縄の二日目は、ひめゆりの塔から姫百合橋まで

金曜の晩、出張先の沖縄でしこたま飲み食いした。

仕事の翌日は土曜。

最終便の飛行機の時間まで、どうやって過ごそうか。朝まで、正直、何も決めていなかった。

ただ、どこかに行った後、遅くても夕方には、沖縄県立博物館・美術館には行こうと思っていた。

首里城も考えたが、まだ火災のあと復旧していない様子。どのくらい見どころがあるかわからなかった。他には、ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館に行ってみたいと思っていた。遠いと考えていたが、調べるとホテル近くのバス停から1時間半くらいでつけそうだった。

40歳代後半になるまで沖縄に来たことはなかったのだから、あまり沖縄には縁がなかったんだろう。今後、誰かとレジャーに来ることはあるかもしれないが、一人で沖縄のことを知るために訪れることはないかもしれない。

よし、ひめゆりの塔に行ってみよう。

朝、昨晩の飲み会の後にコンビニで買って、そのままにしていた翠ジンソーダを飲みながら、そんなことを考えた。しかし、バスの移動が面倒だ。ちょっと時間を変えて検索すると、違う経路が提案される。

乗り換えのバスが時間通りに来なかったら、思ったより時間かかるかもな。

そう思って11時にチェックアウトして、すぐ近くのバス停に向かう。

さっそく、バスの発車時刻を5分過ぎても、バスが来ない…

同じバス停で待っていたフランス人カップルも不安になったのか、「これに乗りますか?」と私が乗る予定のバスの路線番号が書かれたスマホ画面を見せてきた。他にどうしようもないので、一緒にバス停で待った。

バスの発車時刻から8分経ったところで、バス到着。

バスに乗車し、旭橋・那覇バスターミナルに到着。次の便を検索すると、もう当初の予定と少し違った路線の検索結果が表示される。前日、飲み食いしすぎた上に、ホテルで朝食も結構食べてしまったので、もう、昼食は抜きにして、バスの乗り換えに集中しよう。

実際にこの後、次の糸満ロータリーの近くで下車した後にも、次のバス停を探して歩きまわったり、逆方向のバス停で待っていたり、バスが予定時刻に来なかったりしてしまう。

しかし、なんとか13時ごろ、ひめゆりの塔の到着。

ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

ひめゆりの塔

ひめゆりの塔の横に歌碑があった。

いはまくら(岩枕)
かたくもあらん
やすらかに
ねむれとぞいのる
まなびのともは

亡くなった彼女たちは、今も硬い石を枕にして寝ているのかもしれない。

ひめゆりの塔の手前には、壕があることを初めて知る。というか、彼女たちが隠れていた壕のところに塔を作ったことになる。塔というほど高さはなく、石碑といったもの。Wikipedia(ひめゆりの塔)には、終戦直後の物資難時期に建てられたこと、まだアメリカの統治下で大きなものは立てにくかったことが書いてあった。

献花台横の寄付金箱に、心ばかりのお金を入れた後、塔の奥にあるひめゆり平和祈念資料館に入る。雨に濡れて体が冷え、お腹も冷えていたので、まずはトイレに駆け込むところから。

最初の部屋

ひめゆり平和祈念資料館は、まず、犠牲になった彼女たちが、誰がどういう生活をしていたのか、どういう時代だったか、どういう授業を受けていて、
何を考えていたかなどのパネル展示から始まる。パネルの説明で、泊まっていた牧志駅の近くに彼女らが学生生活を送っていた場所があることを知る。

生き残った方々のインタビュー動画

2部屋目、3部屋目には、パネルの他に生き残った同級生が語る映像が流れていた。ここで40分、50分過ごす。沖縄戦だけでなく、戦争の経験者は、戦争経験を語ることがつらい、語りたくないという方は多い。ひめゆり学徒隊で生き残った彼女たちに、それを無理やり語らせたこともあったろうし、後世に伝えないといけないと考え、頑張ってしゃべった人もあったろう。

彼女らは語る。

最初は、手伝いに行くことに何の疑問も、持たなかった、惨劇があるとも思っていなかったそうだ。沖縄以外にも、戦争の後半時期でも、普通の牧歌的な生活をしていた人は多い。彼女らもそうだったということだ。女性にもできる仕事があると思って張り切って向かった方もいた。それに後方支援だし、赤十字のマークがあるところは安全だと思っていた方もいた。

また、戦時中に受けた教育で、戦争に負けるなんて微塵も思っていなかったという。

しかし、実態は、悲惨な状況だった。

食事を与える飯上げ(めしあげ)の仕事では、爆撃がある時にもご飯を用意しないといけない。ご飯が入った樽を運ぶ仕事も命がけだった。何とか食べさせようと飯の入った樽を守って走った。爆撃があっても、こぼさないように樽を置いてから、身を伏せた。それでもご飯を持ち帰った後、あまりのおにぎりの小ささに、兵隊から「こんなんで生きられると思うのか」と怒鳴られた。

ひめゆり学徒隊の生徒は、看護について学んだわけでもない普通の学生たちだったのに、医療行為、それを助ける作業を生徒もたくさんいた。

怪我が進行した兵隊からは、ウジのわく音が聞こえる。大変なのは顔の周りの傷にわいた時。耳に入ってしまっては取りようがない。ピンセットすら支給がない部隊もあった。助けてあげたいと思っても方法がなく、かかりきりにもなれない。今でも、ウジがうごめく音が耳に残っているという。

手足の切断に立ち会う学生もいた。皮膚を切り、めくりあげ、…、骨をゴシゴシきる、最後伸ばした皮膚を引っ張って縫合する。何度も見たので、手順を覚えているという。

糞尿の始末も日常となった。

脳症で幻覚が見え、幻聴が聞こえる兵士もいた。騒ぐ、暴れるは当たり前。最初は脳症ということもわからず、何が起こってるかわからない。

つらい、助けたいと思う気持ちもあったが、作業を繰り返す中、そういう感情がなくなっていく生徒も多くいた。

「天皇陛下万歳と言って死ね」と教えられたのに、兵隊が死ぬときには、「お母さん」と言って死ぬことが最初は不思議だったと語る方もいた。誇らしくはないんだろうか、と。どうしたんだろう? なぜなんだろう? と思ったそうだ。

さらに戦況が悪化して、最後には、同級生が目の前で亡くなっていく。
「生きるも死ぬも一緒だよ」そう語り合った16歳の同級生の写真を、76歳になっても、持ち歩く人もいた。

死んだ人を思って、なぜ自分が生きてるかと考えてしまったそうだ。

生き残ってラッキー! なんてことはない。
運がよかった、運が悪かったとは考えたくはないという。死んだ人に運がなかったとはとても言えない。

そして、それは戦後になって考えたことだ。自分が助かった時に初めて、置いてきた友達のことが思い出された方もいた。捕虜になるくらいなら死んだほうがいい、そう教えられてきたが、死ぬ方法が目の前にない。針を飲もうかと話し合うが、それはこわかった。もしそこに、同級生が一緒に死ねる分の手榴弾があれば死んでいただろう。

自分のことしか考えられなかった。生き残ってしまって申し訳ない。潔く死ぬことが大事と思っていながら、いざ死ぬ場面になると怖さがあった。

最後の大きな展示室

終わりのほう、一番大きな展示室には、壁一面に犠牲になった人たちの顔写真のパネルがあって、プロフィールが書かれていた。展示スペースには、生き残った人たちの作文が同級生たちの作文が並んでいた。ラミネート加工されて、誰でもめくれる形で置いてあった。

とても全部には目が通せない。

パネルのプロフィールには、どんな性格だったか、どんな教科が好きだったか、家族構成はどうだったのか、どんな子だと周りに思われていたか、どんな死に方をしたのかが書かれていた。

残念ながら名前だけで顔写真がないパネルもあった。

17時には、那覇の中心部に戻りたかったので、バスの時間を確認しつつ、できるだけ、この部屋にいて、作文を読み、疲れたら、顔写真のパネルを見て、プロフィールを読んだ。

長くいればいるほど、誰かの人生がイメージできて、涙が、たまる。

平和祈念資料館

悲惨さを伝えることが最大の目的ではないはずだ。悲惨さを感じて、人が同じ過ちを繰り返さないことが本当の目的だろう。それは、犠牲になった人を詳しく知ることで、さらに強く感じられる。生きたかったはずだから。もっと楽しい会話をしたかったはずだから。

展示の仕方としては、それがうまく伝わっていると思う。でも、2時間ちょっとじゃ全部を見切れない。それにキリがないと感じてしまう人も多いだろう。動画をちょっとだけ見てスルーする人も少なからずいた。でも最初から、5時間はかかります、って書いてあったら、私も来なかっただろう。

私も実際に思い立って来てみて、多くの人生が戦地にあったことを知ることができてよかったと思う。一通り見終わって、バス停に移動した。雨に濡れながら、バスを待つ。

お腹が減っていることに気づき、朝、ホテルのレストランでもらったサーターアンダギーを食べた。

『ポケモンGO』『ピクミンブルーム』

那覇に戻る途中のバスで、ずっと一年以上はログインしてなかった『ポケモンGO』『ピクミンブルーム』を立ち上げた。『ポケモンGO』には、沖縄にしかいないポケモンがいるという話を昨晩聞いていた。そんなことを言われたら欲しくなってしまう。『ピクミンブルーム』でも、沖縄育ちのピクミンを保有したい欲も出た。ポケモンは、那覇市内に戻ってからだが、なんとかゲットできた。

那覇市内の公園

17時ちょっと前に、那覇のバスターミナルに到着。しかし、沖縄県立博物館・美術館までバスに乗り換えるのも面倒だ。Googleマップで調べると、徒歩で40分とあったので、もう歩くことにした。歩いて時間がかかった分、博物館・美術館で観る時間が減ってしまうかもしれないが、もうバスには飽きてしまった。

先ほど、ひめゆりの塔で、いろいろ心に溜めたり、逆に何かを吐き出してきたので、今回は、時間の許す限り見れれば、沖縄での記憶としては十分だ。それでも、最大で、一時間半は見れるかもしれない。そう思って移動を開始した。が、そこからが長かった。

普段、都内にいても、街中の公園を見たり、写真を撮ることが多い。だから途中に公園があるとつい、立ち寄ってしまう。那覇市内に公園が多かった。

いちいち公園に入っては、写真を撮ってしまい、到着が遅くなってしまった。

沖縄県立博物館・美術館

到着は、17:45。飛行機の時間を考えると、もう1時間くらいしか滞在できない(閉館は土曜は20時まで)。それでも、博物館と美術館の一日パス(1,300円)を購入。

美術館

美術館のほうは20分の滞在。沖縄出身の日本画家、具志堅聖児さんの日本画展がメインの展示。時間がないので、「朝」「母子」「泉のほとり」「晩夏」など、気になった絵の題名だけをメモって、早足で具志堅聖児さんの展示を2周する。

その他、「沖縄美術の流れ」の展示がよかった。米軍占領下の沖縄・首里市儀保町で、美術家集団が形成した生活共同体、ニシムイ美術村(ニシムイびじゅつむら)にいた作家さんの展示を中心に、沖縄出身の芸術家の作品が並ぶ。現代の作家さんの作品もとてもよかった! よかったんだけれど、何がいいとか考える間もなく美術館を離脱。作品リストはちゃんと取っておこう。

そして、隣接する博物館へ移動。

博物館

15世紀から19世紀の琉球王国の外交文書「歴代宝案」の展示がなかなかに興味深かった。すでにデジタルアーカイブされているので、あとで見てみようと思う。

博物館の企画展は「皇室の美と沖縄ゆかりの品々」。

皇室と沖縄とのつながり、関連ある品、皇居東御苑内にある三の丸尚蔵館の収蔵品などが並ぶ。とくに工芸品は、かわいらしいもの、きれいなもの、作りが精巧なものが多く。ゆっくり見たいなーと思いつつ、早足で2周する。

ただ、ひめゆりの塔で、天皇の国、国の犠牲になるという教育を受けたという話を聞いてしまったので、皇室というだけで複雑な気持ちになる人は、いるだろうと思って、心がキュッとなった。

美術館、博物館を40分で離脱。もっと居たかったが、、残念すぎる。

もっと時間があれば、晩飯に沖縄に多いステーキ店のどこかに入ろうと思ったが、最後に寄りたい場所があったので、ステーキは諦めて、荷物を預けたホテルに戻る。

姫百合橋(ひめゆりばし)

ホテルで荷物を受け取って、姫百合橋に移動した。

ひめゆり平和祈念資料館に行った時、ひめゆり学徒隊が通っていた沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校が、ホテルの近くにあることを知った。どんな教科が好きだったか、周りの同級生とどんな生活をしたのか知ってしまった。彼女たちが生活をした空間を少しでも見てみたくなって、空港に向かう前に、ちょっと寄ってみた。もうまったく学校の面影はないが、彼女たちの楽しかった学校生活をちょっとだけ想像して、ゆいレールの安里(あさと)駅に移動した。

姫百合橋から見た学校があった方向

最後の沖縄グルメ

ゆいレールの車中で、搭乗便の遅れの連絡メールが入る。食事は諦めていたが、少し時間ができたので、お土産を買い、荷物を預け、最後に沖縄特有の食事をしようと、空港一階にある「ポークたまごおにぎり」専門店、「ポーたま」に駆け込む。都内にも店舗はあるみたいだけど。

スタンダードメニューの「ポーたま(米、玉子、ポークランチョンミート(SPAM)、海苔)」と、スペシャルメニューの「島豆腐の厚揚げと自家製油味噌(島豆腐、油みそ、カイワレ大根)」を購入。空港二階で一人で、食べた。

沖縄の二日目をふりかえって

駆け足で周りすぎたように思う。正直、計画を立てていたら、こんなに無理はしなかっただろう。だから無計画でよかったんだろう。でも、バスについてはもうちょい予習をしておきたい。でもこれは都内のバスも一緒かもしれない。生活圏エリア以外はわからないことが多い。停留所の名前が同じでも、路線によって場所が違うし、時間通りには来ないことも多い。

あと、年中こんなに降るものかわからないが、天気アプリを見ると、雨マークはないのに、ずっと小雨に降られてた。折りたたみの傘は必須かもしれない。

遅れた最終便の飛行機は予定の20分遅れで羽田空港に到着。終電の京急に間に合うか微妙だったが、京急の乗り場まで走って、ギリギリ最寄り駅まで、電車で到着できた。

さて、月曜日から、先週行った鹿児島と、沖縄の件で、仕事をしないといけない。土地の香りを感じながら、仕事に息を吹き込もうと思う。

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のーどみたかひろ
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。