昔見た『砂の器』もう一度、見てください
『砂の器』観戦の記憶
とにかく、感情を揺さぶられた映画です。
私も、何度、見ただろう。
20代で見た。30代でも泣いた。
Amazon Prime会員は、無料で観れます。
2016年の「午前十時の映画祭」、映画館でやってると聞いて、このときは、即、午前半休取って観に行きました!
劇場公開が、1974年ですもんね。映画館で観れたというのは本当に幸せでした。古い映画は、映画館でときどき観れるといいなぁ。
と、なんと2019年もあるそう!!!
また観に行こうと思います!
にしても、2019年「午前十時の映画祭」のラインナップはすごいですね
(゚A゚;)
ただ、小説はいまいちでしたね。
昔、「知ってるつもり」というTV番組の松本清張回で、司会の関口宏さんが、
「小説も名作でしたけど・・」
なんて言うもんだから、期待して読んだけど…… さては読んでなかったな。
(あるいは、当時、小説のほうは殺し方が斬新だったから、それを指してたか)
映画は、小説に登場した小悪党な関川も登場しません。
あらすじ(ネタバレあり)
あくまで、『砂の器』を見た人向けのノートだけど、軽くあらすじに触れておきます。
蒲田の操車場で起きた殺人事件。顔もつぶされ、身元もわからない。近くのトリスバーで、一緒だったと思われる若い男との会話、東北弁の「かめだ」という以外には何の手がかりもない。そこから始まるストーリー。二部構成。
最初サスペンスのように進んでいく。今西刑事(丹波哲郎)、蒲田署の吉村刑事(森田健作 現千葉県知事)が事件の解決にもがく。そして、事件解決の目処が立った捜査会議。事件解決までのストーリーを一気に、回想シーンを劇のように見せつつ伏線回収。終盤、トリスバー「ロン」での会話が再現される!
あれはなんでもない目撃情報だったはず! あぁぁぁああ、そこにあんな場面があったとは!!!(和賀英良がピアノの鍵盤をたたくに合わせて)
Wikipedia にもあるように、黒澤明が脚本に無駄が多いと指摘する意味もわかります。
その無駄が、作品の詳細を思い出しにくくしていると思いますが、全体の旅情、放浪も含めた空気を醸しているようで好きです。
(でも、旅行会社か国鉄からお金もらってんのか?? というくらい旅情を推しますね)
一度、見てしまうと、確かに前半の無駄について感じることが多いですが、今西警部補が手を替え品を替え、事件に取り組むことが、和賀英良(本浦秀夫)の頑なさ、幾重にも重なった構造との対比のようで、後半の心の浄化を助けているように思います。
作品中の誰にシンパシーを感じるか?
三木謙一(緒形拳)に同情する人があるでしょう。
なぜあんないい人が!!
そう思います。
警視庁捜査一課係長(稲葉義男)
「つまりお父さんに恨みとか敵意を持ってる人です。」
三木 彰吉(松山省二)「絶対、そげな人はおらんけぇ」
「実際、人の面倒、よくみるたちで、誰からも尊敬されとったんですらぁ」
いやいや、そんな人間はいねーよ、と思いますが、、今西警部補が(丹波哲郎)が、捜査の過程で知るように、彼は非の打ち所がない仏のような人でした。
あぁ、苦しかったろうな、挙句に顔までつぶされて。
三木謙一が、和賀英良に言います。
「たった独りの親。それもあげな思いをした親と子だよ!」
(自分も親だと思ってたはずなのに、そこまで言わせる?!)
でも、三木謙一は誰も恨みません。彼はそういう人です。だからこそ、同情が強まります。
和賀英良/本浦秀夫(加藤剛)に共感することもあるでしょう。
二人の父を捨ててまで、ようやく自分の大事なものを表現できそうな目処がついた。刻苦勉励ののち、音楽家として大成しようとする、ようやく一人で成果を形にできる機会を得た!
人生において、成果物はあっても、生前に集大成を形にできるという人は珍しいでしょう。観ている身としても、それを奪われるのも酷だと思います。
殺人後も、高木理恵子(島田陽子)に堕胎を迫る、子どもにもし遺伝してしまったら、という恐怖もあったろうと思います。
(ハンセン病は遺伝する病気ではありません)
そうまでして、大事なもののために捨てることを躊躇しない覚悟を持って得た機会です。絶対、捨てちゃいけません。
あらゆるものを捨て、ようやく形にしようとしたとき、
なぜ、今、現れたんですか! 三木さん。。
二人が出会ってしまったこと、喜ぶべき事象なはずですが、ただただ悲しさが募ります。いやー、会ってやれなかったもんかね・・と思いますし、千代吉さんの死期が近かったから、三木さんが性急に迫ったことにより、起こった不幸かもしれません。
あと、役者がいいです!
丹波哲郎の雰囲気はもちろん、笠智衆(村の桐原 老人)、佐分利信(田所 前大蔵大臣)、渥美清(伊勢の映画館「ひかり座」支配人)、登場シーンが多くない内藤武敏(警視庁捜査一課長)。
もう雰囲気だけで、ご飯が食べれそうな役者さんがたくさん出ています。
役者さんは、存在が大事ということをこの映画で知りました。
ちょっとのシーンだけで存在を記憶しているというのは、歌舞伎でいう仁(にん)が合う配役だったんでしょう。
もう一度見ると、また別の視点が増えていると思います。
新たな視点とカタルシス
もし、前回、『砂の器』を観たあとにお子さんが生まれた方、頼むからもう一度、観てください。
あなたは本浦 千代吉(加藤嘉)の思いを体に受けて、もう一度、涙します。
親になって改めて見ると、千代吉さんの秀夫への愛、千代吉さんの行動が沁みます。そう思うと、もう千代吉さん目線でしか見れません。
病気のため、村から出ることになったとき、不幸の道連れにも見えました。子どもを捨てる、一番信用できそうな人に預けることも選択肢にあったはずです。けど、愛情があって、何とか子どもを育てたい。行く末を見届けたい、そう思うことを親のエゴとは言いにくくなりました。私も子を持つまで、そこまで思ったことはありませんでした。
以前までは、親のエゴだよなあ・・けど千代吉さんは、他にいい方法があったことに気づかなかっただけだろう、と。自分の責任を果たしたかったんだろう、くらいにしか考えていなかったように思います。
捜査会議で、今西刑事が言います。
本浦 千代吉の書簡、
「他のものからのハガキ、手紙の類は一切ございません。」
(三木謙一とだけの書簡が約24年間)
「秀夫は今どこにいるんだ?死ぬまでに会いたい」
そう、存在自体が気にかかるんです。
放浪中、
意外に、秀夫の周りにいた大人がちゃんと描かれているのはよかったですね。
本浦親子を村を追い出す巡査さん。秀夫が額に怪我をするが、追い出そうとしたあの巡査にしても、伝染病がどういう影響を及ぼすかわからない中、正しいことをしただけです。責任をしっかりもったいい巡査だと感じました。秀夫の怪我を見て、動揺するくらいの人です。
もうクタクタになって、亀嵩村の道祖神のところで休む千代吉さん。島根には道祖神は少ないとされているので、ここにあったのは幸いでした。
千代吉が施設に入ることになり、千代吉と秀夫が別れるシーン、亀嵩駅に線路を走るシーンは、やっぱね、、グッときますね。
その後、三木謙一が、親として育てようとした後、秀夫が三木家を出て行きます。
捜査会議のシーンに戻って、今西警部補が言います。
「これほどの家族の情愛にも関わらず、父親のあとをおったか、放浪癖が身についたのか」
父との思い出が薄れること、父への愛情が他に向かうことの恐怖だったのでしょうか。父親になる覚悟をした三木謙一も、さぞつらかったろうと思います。秀夫が去ったとき、息子と、千代吉への信義の両方失ったのだから。良心に従う、過度な良心の持ち主というだけではなく、気持ちを慮って、共感し、それを許す心も持った人だから。
このときの救いはね、三木謙一の元をさるとき泣いていたね、秀夫。その姿だけでも、三木謙一に見せてあげたかったよ。
終盤のトリスバー「ロン」のシーン、これまでは、本浦秀夫/和賀英良の気持ちが、苦しくなるシーンだったのに、もう、千代吉さん目線、父としての三木謙一目線でしか見れません!
(もう、なんてこと聞くんだよ)
今西警部補「こんな顔の人は知らない?」
「例えば、6つか7つの子をだったとして」
千代吉「そ、そんなこと、しらねーぁぁぁああああ」
ぁぁぁああああ
(生きてた!会いたい・・けど、何かやった?父ちゃんは何も言わないぞ!
生きてた、よかった、会いたい、言わねーぞ、会いたい!! )
秀夫はいい仕事したよ、千代吉さん!
捕まるんだもん、きっとこの後会えたよね。
昔観た人はもう一度見てください。あるいは映画館に行きましょう。
とりあえず、秀夫の苦痛、千代吉の気持ちに心を浸しながら、蒲田のトリスバーの片隅で、お酒を飲みたい。
いい歌を詠むため、歌の肥やしにいたします。 「スキ」「フォロー」「サポート」時のお礼メッセージでも一部、歌を詠んでいます。