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【エッセイ】年老いて新婚にもどる

  今年の夏、近くのアパートに70代のご夫婦が引っ越してきました。引越しの挨拶にこられ、それからいろいろと話すようになりました。
「今まで住んでいた家は、息子夫婦にあげちゃって、ここに引っ越してきました。これからは新婚時代を思い出して2人で過ごします。でも、もう70歳を超えているし、新婚とか、ないよな」と楽しそうに大笑いをしながら話をしてくれました。

 その数日後、ご夫婦の声がベランダから聞こえてきました。アパートの2階を見上げるとベランダに2人の姿が見えました。ベランダに備えつけられている物干し竿掛け。そこに買ってきた物干し竿をどうつけるかと話しているようです。まるで、新婚さんが新居で笑い声をあげながら、会話しているようでした。

  数日後、「のはるさん、メダカを飼いません?」と声をかけられました。奥さんがたくさんの種類のメダカを飼っていたのですが、アパートではすべてのメダカを飼うことはできず、狭いベランダに水槽を一つ置くのが精一杯だと言うのです。メダカを貰ってもらえる人を探していたのです。翌日、我が家に4つの大きな水槽とたくさんのメダカが届きました。赤いメダカ、黒いメダカ、頭がピンク色のメダカ、いろんなメダカが庭におかれた水槽の中を泳いでいます。

 アパートのベランダからは、いつも2人の楽しそうな声が聞こえます。「おい、ちゃんと餌をやったのか」「今日はやり過ぎよ。あげればあげるだけ食べちゃうんだから」。その会話からメダカに餌をやっていることがわかりました。
「のはるさん、メダカはどう?」。ベランダから顔を出したご夫婦が笑顔で話しかけてくれました。声かけは嬉しいのですが、メダカを亡くしてはならないと、焦る気持ちも顔に出てしまったのでしょう。そんな時、奥さんが「メダカも寿命があるからね。安心して飼ってね」と、私の心を察したかのように声をかけてくれました。

 家庭菜園で採れた野菜をもって、メダカをいただいたお礼にアパートを訪ねました。
 ピンポ〜ン。は~い。旦那さんの声です。鉄の玄関ドアが開くと旦那さんのいつもの笑顔がありました。
「家で採れた野菜、少しですが食べてください」と差し出すと、奥さんも玄関に出てきて、「新鮮な野菜、嬉しいわ」と言いながら野菜を手に取ってくれました。
 旦那さんは、小さな声で、「ほら、見てくださいよ。狭いアパートですよ。ふた部屋ですよ。ふた部屋。『新婚の時と同じふた部屋だよね』と妻と笑っていたところですよ。お金はないけど、時間はある。これでも、なかなか楽しいものですよ」と言いながら、いつものように大きな笑い声をあげました。

 以前に聞いた「裕福だから幸福とは限らない」「裕福と幸福とは無関係」という言葉を思い出しました。ご夫婦の笑顔を見ていると心が幸福とはこういうことなのかと思えました。ご夫婦にとっての残りの人生。新婚時代に戻ったようなふた部屋のアパートで、狭いながらも幸せな時を刻んでいるのだな〜。
(ご夫婦の笑顔は幸せそのものです)
 

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