【 たびびと 】
【 たびびと 】
いつも幸せ過ぎた僕たちだったのに。
ふたりはそのことに今まで気づけなかった。
最後に交わした言葉は「おやすみ」だった。
それはたわいもない、
いつもと何も変わらない。
今までと何も変わらない。
たったその4文字だけだった。
僕は机の上に手紙を置き、静かに家の扉を開けた。
外はまだ暗さが残る、まるで夕暮れの空。
さっきふと見た君の寝顔は、本当に幸せそうだった。
僕は、旅立つには少なすぎる荷物を抱え、静かな砂利道を独りで歩いた。
まだ何の音もしない。鳥の鳴き声さえも。
ただ、石がぶつかる音だけが聴こえる。
インターネットなんてない。
携帯電話なんてない。
そんな時代の、別れ話。
最寄り駅に着いた。
人は、ほとんどいない。
汽車が来た。
空っぽな汽車に座って窓から外を見た。
遠くにぽつんと家が見える。
さっきまで、男女が仲良く過ごしていた様な家。
見慣れた、緑色の屋根。
なぜかふと、帰りたくなるような。
今頃君は目覚めただろうか。
今日は少し肌寒いから、きっと二度寝しているんだろう。
いつも僕の顔を覗いては、また二人で眠りに落ちていた。
なぜだか、さっきよりも肌寒く感じてきた。
そんな気がした。
人の温もりは、失った時にその大切さに気づく。
汽車に揺れる僕を暖める物は、君が編んだこの緑のマフラーだけだった。
「 本当にごめん。」
僕は心の中で君に謝った。
手紙の最後にも。そう記した。
「 謝らないで。」
君はきっと言うんだろう。
いつもそうだった。
いつも僕が悪いのに。
君が僕を怒ることはなかった。
そう。
僕がいつも悪いのに。
「ありがとう。」
ふたりの気持ちはすれ違っていたはずなのに。
お互いの気持ちは手に取るように分かるのに。
ひとりでどこか遠くに逃げ出したいのに。
別々になる理由なんてどこにもないのに。
なぜか僕たちは通じあっている。
そんな気がする。
色々な言葉や感情が頭の中を駆け巡り、
刹那に感じたこの空間は、
有り得ないほど現実とはかけ離れていた。
とある秋の日の、たった1ページ。
はっとして、突然目が覚めた。
机の上には、ひとつの手紙が置かれていた。
完.