古代インドで起きた核戦争
COBRAの2023年11月27日の記事「Aldebarans」で紹介された記事「Myth of Ancient Nuclear War in India」を翻訳しました。
※翻訳がお気に召しましたら、記事下部からサポートをお願い致します。
”アルデバラン人は、ドラコニアンとの核戦争で敗れました。”
元記事
人類は新世界へと旅立てるのか?それとも、決して学ばず、同じ歴史を繰り返すのか?もしそうなら、最後はやはり破滅しかない。無限に続く円環から、我々は抜け出せるのだろうか?
人類が科学技術の発展をしていくうちに、どうしても「核戦争」という言葉がちらつく。どうしてもそっちの方向へ引っ張られてしまうような、奇妙な引力があるようにも思える。もしかしたら我々は、過去にも同じ失敗を繰り返してきたのだろうか。
古代インドの叙事詩に登場する空飛ぶ天空の城ヴィマーナ。ヴィマーナは実在していた「飛行船」の起源である。
聖典には、過去に地球上で起きた大戦争についてが描かれているものがある。当時使用されていた破壊兵器は、大地そのものを「力場」に変換して揺り動かすことができた。古代インド文明には、光年に相当するような極大の物体の長さも、原子のような極小の物質の長さも表せる科学力があった。つまり、原子力を扱えるだけの科学文明があったということだ。
広島と長崎への原爆投下を知る我々は、核兵器の恐ろしさをよく知っているはずである。しかし、実際に原子爆弾が使用されるまでは、過去に地球上で同じような悲劇が起きたことなど想像もできなかっただろう。しかしこの記述には、原爆がもたらす影響までが克明に刻まれているのである。放射能汚染による毛髪や爪の欠落や、火傷を紛らわすために水に浸ろうとするところなど。
古代都市ハラッパー と モヘンジョ=ダロ
古代遺跡ハラッパーとモヘンジョダロには、当時の街路と思われる場所の至る所に遺体が転がっていたことが、発掘を進めるうちに判った。老若男女問わず、街の住人は通りで横たわり、埋葬されることなく死んでいった。発掘された骸骨は実に44体であった。遺体の姿勢から察するに、突然の爆発から家に避難しようとしたところで敢えなく亡くなったものと思われる。父親と母親と子供の親子と思われる遺体もある。顔を地面に伏せ、手をつないだまま路上に倒れている。何千年も前の遺跡で、何が起きたのか?遺体は腐敗した形跡がない。外に置き去りになっているのに、野生動物に食べられることもなく、他民族の侵略による結果というわけでもない。
どの遺体からも、広島と長崎に匹敵する高濃度放射能汚染がみられる。旧ソビエトの学者は通常の50倍の汚染だと発表していた。インド北部には、他にも核爆発の痕跡を残す古代遺跡が見られる。ガンジス川とラージマハル山の間で発見された都市などは、瞬間的に猛烈な高温度の熱風にさらされたようだ。それら都市の巨大な壁や土台などが溶けて融合していた形跡がある。つまり、ガラス化しているのだ!モヘンジョダロ近辺には火山噴火は起きていない。他に土器を液体化させるほどの熱線といえば、原子爆弾か、もしくは我々にとっても未知の兵器か。真相はわからずとも、何らかの人工物の爆発により都市は全滅したということだけは解る。
ラジャスタン州の放射性降灰
伝説の王朝ラーマ帝国は、核戦争で荒廃したと言われており、その証拠も見つかっている。
インダス渓谷は現在、タール砂漠になっている。その入り口である街ジョードプルの西には、放射性灰が検出されている。ここだけでラジャスタン州の放射性灰全体のうち3平方マイル分を占めている。科学者たちの調査が入ったのは、過去に住宅開発が行なわれていた場所だった。そこでは以前から、住人たちに先天性異常やガンの発生率が突出して高いことがわかっていた。インド政府は現在、この地域を封鎖している。この事から察するに、8000年から1万2000年前に原爆の爆発によって、ほとんどの建物と50万人を超える住人たちが犠牲になったと思われる。爆発の規模から察するに、使用された核爆弾は1945年に日本に投下されたものと同程度の大きさだったと推定される。
ムンバイの大クレーター
ムンバイ近郊には、巨大なクレーターがある。ムンバイの北東400キロに位置する直径2,154メートルにのぼる、ほぼ円形の「ロナー・クレーター」は、5万年前にできたものだが、これも古代に起きた核戦争と関連している可能性がある。というのも、その周辺では、隕石落下の痕跡が見つかっていないのである。玄武岩だけでできたクレーターとしては、世界で唯一なのだ。しかし、何らかの「衝突」で大穴ができたのは間違いない。最低でも60万気圧を超える物理的衝撃が必要な大きさだ。また、急激な熱線の放射の痕跡も、玄武岩がガラス化している事から確認できる。
古代核戦争説への歴史学的見解
興味深いことに、マンハッタン計画の主任科学者J・ロバート・オッペンハイマー博士は、古代サンスクリット文学に精通していたことで知られている。最初の原子爆弾実験の後のインタビューで、彼は『バガヴァッド・ギーター』を引用して、次のように述べた。「我は死神なり、世界の破壊者なり」
アラモゴード核実験から7年後、ロチェスター大学でのインタビューで、あの核実験が史上初の原子爆弾の爆発であったかと問われ他時、彼はこう答えた。「インド、アイルランド、スコットランド、フランス、トルコなどでは石壁や煉瓦が溶けてくっついている遺跡が見られる。古代都市でガラス化した壁を見たら、原爆の仕業と考えていい」
歴史家のキサリ・モハン・ガングリ氏によれば、古代インド聖典には、広島や長崎の原爆と同じような爆発の記述がたくさんあるとのこと。他にも対空決戦兵器などの最終兵器の記述まである。マハーバーラタ』の一節、ドローナの書には、古代核戦争が描かれているという。
「最終兵器による爆発が、その場にいた全軍を壊滅させた。馬も象も、武器を持った戦士たちの群れも、まるで乾いた木の葉のように吹き飛ばされた。きのこ雲の形を思わせる、巨大な傘のような煙が垂直に、連続して立ち上がる。食べ物は汚染され、人々の髪の毛は抜け落ちていく」
現代人よりもはるかに昔から核技術が存在していたことは、とても想像ができないことだが、実際に放射性灰が検出される土地があることと、核戦争を記す古代インド叙事詩からも、過去に核戦争はあったと考えてもいいだろう。