パリの秘密 ~イシス信仰~ 前編
COBRAの2018年12月16日の記事「Yellow Vests and the Vortex of Paris」で紹介された記事「LES SECRETS DE PARIS ~CULTE D'ISIS AU COEUR DE PARIS~」を翻訳しました。長いので二つにわけて翻訳します。翻訳料は300円です。
”1793年11月10日に、パリのノートルダム寺院で理性と自由の女神の活性化が行われました。
その教会は、ローマ時代にイシスの寺院があった場所でした。
女神の神秘のイニシエーションは、現在でもそこで行われています。
理性の女神の活性化からちょうど225年後に、レジスタンス(RM)のある女神の巫女がパリの地上にやってきて、特別の地球のクンダリーニ活性化を行いました。”
元記事:
パリの中心の、イシスの信仰について
その起源の謎を解くには、古代まで遡る必要があります。ギリシャとエジプト両方のイニシエーションの儀式に含まれる秘密の中でも、最重要のものは、デルポイ(デルフォイ)の神殿の扉に刻まれていたのです。フランスの首都の名前は、エジプトの神殿の神々に由来しています。「PARIS」の字は「BAR-ISIS(イシスの小舟)」に由来すると言われています。なぜ舟かというと、最初にセーヌ川にあるシテ島に辿り着いた「黒づくめの女性」の一団は、舟で川を渡ってきたからです。
パリ市の紋章に舟が描かれているのはそのためです。しかし、このことが公式の説明になることはありませんでした。パリには二つの隠された物語があります。一つは教科書やツアーガイドの話の中のパリ、もう一つは不思議な出来事や魔法、秘密の儀式などが出てくるパリの物語です。「黒づくめの女性」はアフリカ人ではありませんでした。「王大妃信仰」はアフリカだけで広まっていたわけではありませんでしたし、彼女は子供を亡くしたから黒い衣を身にまとっていたのではありませんでした。
女神イシス像の標語(HH国立歴史跡より)
サント=ジュヌヴィエーヴ修道院とサン=ジェルマン=デ=プレ教会の古文書に、このことについての記述が残っています。その内容は、昔のフランク王クロヴィスとパリ王キルデベルトから命じられた、イシスの神殿の遺物の保管についてでした!古くからの言い伝えによれば、イシスは秘教学校の教師であり、魔法の使い手であり、今日ノートルダム大聖堂があるシテ島を中心とした地域や、後にサン=ジェルマン=デ=プレ教会が建てられた場所などに住む、パリの人々に崇拝されていた存在なのだと言われています。
サン=ジェルマン=デ=プレ教会の修道士アッボンは、9世紀頃にパリがノルマン人に包囲された時に街の守護者だったのがイシスだと考えていました。更に、ノートルダム大聖堂の建設者はイシスの記憶を留めるために、聖アンナの門にテュルソス(訳注:先端に松ぼっくりをつけた杖のこと) を手に持った聖母像を彫りました。聖母としての彼女の本当の正体は、ナイル川の魔術師だったのです。
セーヴル通りの噴水にあるエジプト人像
ヨーロッパにおけるイシス信仰(ナポリ国立考古学博物館)
シャトレの噴水にあるスフィンクス像の一つ
それだけではありません!旧石器時代後期(紀元前35,000~20,000年ごろ)には、オーリニャック文化という最初の文化がありました。この時代に生み出されたものとしては、ラスコー洞窟に残る牛、馬、鹿の多彩な壁画が有名ですが、一方でラ・グラヴェルで発掘されたお尻の大きな「ビーナス」の像も有名です。
「ヴォロネジのビーナス像」は紀元前29,000年ごろに作られたものとみられています。
よって、エジプトは脈々と続いた古代信仰の単なる通過点にあっただけと言えるでしょう。
ローマ時代にカエサルが言及していた、古代ルテティアに集中して分布していたパリシイ族、つまりはPARISIS(パリ-イシス)たちは、現代のパリ人の祖先です。パリという名前は、ローマ皇帝がケルトのパリシイ族に敬意を払って名づけたラテン名でした。セクアナというケルト神話の癒しの女神たちの名前がセーヌ河の名前の由来であったように、ケルト文化の影響が全く無かったとも言えないのです。
皇帝はまた、ロワール河河口(セーヌ河の近く)で広く信仰されていたイシスというエジプトの女神についても言及していました。イシスを信仰していたギリシャ人が様々な場所を旅し、ケルト人たちの間にも信仰が持ち込まれ、結果的に彼らも外国の女神を信仰するようになったとも考えられるのではないでしょうか。ロワール河河口のガリア文化に、外国からきたイシスの神秘という要素が導入され、ルテティア文化の一つとなっていったのです。
うお座を表すルーヴル美術館のピラミッド
ルーヴルからオベリスクを通って凱旋門まで続く道は、
太陽の黄道に沿っている
「パリシイ」という名前が全くケルト語らしくない響きなのは、彼らがラングル高原に移住したランゴン族と同じ部族だったからだと推察できます。はたして、カエサルもイシス信仰者となったのでしょうか?紀元前48年にカエサルはエジプトをローマ帝国に併合し、クレオパトラ女王と恋仲になりました。
カエサルにはランゴン族の妻もいました。彼女との間にはサビヌスという息子がもうけられ (大河小説レ・ミゼラブルでエポニーヌとの恋仲が描かれる)、彼は後のウェスパシアヌス帝政に対しての反乱を煽りました。したがって、ガリアの地にイシス信仰を植え付けたのはカエサルだったのかもしれません。彼がルテティア文化に女神イシス信仰を持ち込んだ可能性は否めません。パリの名がイシス信仰に由来するのも、元々はカエサルがイシス信仰を持ち込んだという背景があったのでした。
ビュット・ショーモン公園の形は、鷹の頭を表している
パリのど真ん中には、エジプトのアンクが見られる
ナポレオンの墓にはサルコファガス(エジプト石棺)があしらわれている
パリという名前には確実にイシスとの関連性がありました。ローマ時代専門の歴史学者ピエール・ユバック教授によると、パリシイ族という名前はイシス神殿という意味だとも主張されています。ナイル河のほとりにかつて存在していた都市には、オワーズ(Oise)神殿という神殿が点在していたというヒエログラフで書かれた記録が見つかったからです。歴史家のチーク・アンタ・ディオプによれば、パリに最初に定住した民族はパリシイ族だったが、その名前の明白な由来は分かっていないのだと言います。
「フランス、特にパリ盆地にはイシス神殿が多く散見されたことからも、イシス信仰が極めて広まっていたことが窺えます。それは神殿というよりは、イシスの家とでも言えるでしょう。"神殿"という言葉の元となった古代エジプト語の"Per"という言葉は、"家の中"を表すからです。そしてパリ(Paris)はPer-ISIS、つまりイシスの家とも読めるのです。」
パリの自由の女神はイシュター(ビーナス)です
ルーヴル美術館にはエジプトの女神ハトホルが彫られています
ラ・デファンス区の「うお座の三角形塔」
フランス人の生活の場の中にも、「PARIS」の名が「ISIS」に由来しているということを裏付ける建物が残っています。その一つが、セーヌ川流域に点在していたイシス神殿で、もう一つが、今もサン=ジャック通りに残るトート神(ヘルメスまたはメルキュール)の神殿の存在です。イシスとトートは神々のメッセンジャー、または「十字路の守護神」として知られています。
十字路や森の中などでは、イシスやトートのイメージが頻繁に見られます。イシス神殿は現在のサン=ジェルマン=デ=プレ教会となり、トート神殿は現在のノートル=ダム=デ=シャン教会となりました。オシリス(ユピテル)神殿も存在していました。
イシスの彫像は18世紀に破壊されるまでサン=ジェルマン=デ=プレ教会に長らく保管されていました。パリ市の紋章にはイシスの舟が描かれており、「Fluctua Nec Mergitur(たゆたえども沈まず)」のモットーが刻まれています。このモットーはホルス神の冒険譚を思い起こさせますが、神殿の秘儀のイニシエーションを受けた者たちの航海も同時に思い起こさせます。
観光客にとっても、シェルシュ・ミディ通りになぜか女性の頭を持ったスフィンクスの像を見つける時には、驚くことでしょう。その古びたスフィンクス像は、パリで行われていたイシス信仰の名残なのですから。