【工事中】 これはDHLのTシャツではない、あるいは2010年代のファッションにおけるアイロニー - 21世紀のロゴマニア(III)
秘密は、自らを閉ざそうとするのと同じように自らを開陳する。秘密はモード(ファッション)のようだ。モードは際限なく下の階級に自らを写し取らせるに任せ、そして自らを秘教的なものにとどめるためメニューを、ワードローブを刷新し、際限なく他の場所に逃げ込む。モードとは伝播と引き潮の交代であり、新奇さを追い求める模倣なのである。(ヴラジミール・ジャンケレヴィッチ『イロニー』)
この一節自体に然程の面白さはもはやない。モードはトリクルダウンし、下の階級は上の階級を模倣する。ウェブレン以来のこうしたモードに対する見方は、ひとつのコンセンサスをとなっていると言っていいだろう。しかし、この一節が『アイロニー』と題された書物から採られたということは我々の興味を惹く。哲学者は上に述べたモードの伝播する構造の中にアイロニカルなもののうごめきを見ている。フランスのブランド「ヴェトモン」がトレンドセッターとして浮上した2015年からストリートブランドの勃興がピークアウトした2018年あたりまで、実際モードにおいてアイロニックな語法がたしかに隆盛を誇っていたように見える。2010年代後半、「ストリート」「タッキー」といったスタイルがトレンドとなり、ハイブランドさえTシャツにデカデカと自ブランドのロゴを貼り付けてアイキャッチを競った。幾人かはこうしたトレンドに、禁欲的であった「ノームコア」の反動たる1970-80年代の絢爛な文化のリバイバルを見た。そしてまた幾人かは、高度消費社会の文化を参照するその構造にアイロニーを見ていた。2018年、Market WatchにKari Paulが書いた「Irony is back(アイロニーが戻ってきた)」の冒頭部分ではこう述べられている。「ファッションの専門家によれば、アイロニーが戻ってきたらしい。」Eugene RabkinはBOF誌の2018年のアーティクル「Ironic Fashion Is Nothing New(アイロニックファッションはなにも新しいものではない)」を次のような一節で始めている。「「The Rise of the Fashion Hipster」[RabkinのBOF誌の2016年のアーティクル]以降、多くの記事の中でアイロニーはコンテンポラリーファッションにおける鍵となる美学的動力源と考えられている。確かに、アイロニーはモスキーノのジェレミー・スコット、ヴェトモンおよびバレンシアガのデムナ・ヴァザリア、オフホワイトのヴァージル・アブローといったデザイナーの仕事の核にある。」
もしPaulが書くように一部のコンテンポラリーなファッションデザインにおいてアイロニーが核となっているのなら、アイロニーについて理解することで今ファッションにおいて何が起こっているのかを理解することができるはずだ。いったい、ファッションとアイロニーとの関わりはどういったものなのだろうか。そして、ファッションにおいてアイロニーはどのように実現されるのだろうか。本稿は、アイロニーというものを手掛かりとして、2010年代後半にモードの一角に見られたデザインの傾向を読み解こうとするものである。それをする上で我々はまず、アイロニーとファッションとの関わりを見ていく。アイロニーとはいかなるもので、アイロニカルにファッションを行うとはどういうことなのか。次いで、上のアーティクルで挙げられていた3人のデザイナー、ジェレミー・スコット、ヴァージル・アブロー、デムナ・ヴァザリアの仕事について、それがいかなる意味でアイロニカルであると言われるのか、そしてそれがファッションデザインを考える上でどういう意味を持つのかということを考えてみたい。
そもそも、ファッションにおいてアイロニーを用いるとはどういうことなのだろうか。Market Watchのアーティクルでは、アリゾナ大学のCaleb Warrenの研究が紹介されている。Warrenは、特定のプロダクトが「それが示すもののグループに属している人たちに対してはある特定の事柄を表しながら、別の人たちに対して控えめな目配せを送る」ように使われていることが示されたとしつつ、アイロニー的消費(ironic consumption)を次のように定義している。「プロダクトを、慣例的に知覚される意味とは逆のアイデンティティ、特徴、信念を意味するように用いること」ここで例として挙げられているのはジャスティン・ビーバーのTシャツで、ビーバーのTシャツを着ているあるカレッジの学生にアンケートを取ったところ、半数以上がアイロニーからそのTシャツを選んだと回答したという。Warrenの定義を敷衍するなら、「アイロニックに」ジャスティン・ビーバーのTシャツを着ることで、あなたはあなたがビーバーのファンである、というTシャツが通常受け取られるメッセージと逆のメッセージをほのめかす。つまりこのTシャツはあなたがビリーバー(belieber)であるということ、そうではないことの両方を意味しているわけだ。このように、アイロニーにおいてはある記号が通常受け取られる仕方とは違う仕方で受け取られる。古希語のεἰρωνεία(eirōneía)、「隠すこと、偽りの無知」を語源に持つこの文彩の本質はこのように、字義通りの意味と隠された意味を持つ二重のメッセージであるというところにある。ではこうした二重性にはどういった意義があるのだろうか。換言すれば、なぜ「隠された意味」は「字義通りの意味」で隠蔽されなければならないのか。
まず、アイロニーは批判のニュアンスを和らげることができる。ビーバーのTシャツの例にも表れている通りアイロニーの最も一般的な形式は「賞賛による批判」であるが、アイロニストは声を荒げて罵倒することはしない。彼は攻撃が攻撃でないかのように振る舞うことで批判の苦味を和らげ、攻撃者の口うるさい印象を薄れさせることができるのだ。またアイロニーは、批判対象に対する価値判断を自然と導くことができる。アイロニーはひとつの隠蔽であるがゆえに、受け手に解釈を要求する。ビーバーのTシャツはまずあなたがビーバーのファンであるということを一義的に意味するのであり、そこから二義的な意味、つまりあなたがそうで「ない」ということが導かれるためには、メッセージの受け手が記号をアクティブに解釈することが必要となる。アイロニーはそれを解するもの、解さないものという解釈の二つの共同体を作り出すわけだ()。こうしてアイロニーは結果的に二重に価値判断に関わることになる。まず一方で、アイロニーによって賞賛による批判が行われるとき、批判性は批判対象の実態とアイロニストが賞賛する理想像との間の価値の落差から生まれる。アイロニカルな「なんていい天気なんだろう」という言明は「いい天気だったらよかったのに」という非現実の理想を暗にほのめかし、そこから実際の天気が嘆かわしいものであるという判断が自然と導かれる。アイロニストはイデアリスト(理想主義者)であり、モラリスト(道徳主義者)なのである。そして他方では、解釈という知的なプロセスを経ることで、ほのめかされた言外の意味が「わかっている」ものと「わかっていない」ものの間に知性あるいは知識に関わるヒエラルキーが打ち立てられる。ビーバーのTシャツをビーバーのファンのシンボルとして解釈するものは、お人好しであり、騙されやすいカモなのだ。
つまり、なぜアイロニーが必要かという問いに対する一つの答えは、アイロニーが価値判断を含む批判性を内包しており、そのため強力な論争の道具たりえたからである。最初の偉大なアイロニストであるソクラテスは何よりもまず論敵を打ち破る論争家であった。そして、アイロニーの論争的な力は隠されることで初めて十全に発揮される。19世紀フランスの詩人であるアルカンテル・ド・ブラムは言明がアイロニーであると明示できるよう「?」を左右反転したアイロニーサインなるものを使用したが、この新しい記号は定着しなかった()。アイロニーを指摘することは、それを殺してしまうことなのだ()。
()この記号は1905年版の挿絵入りラルース辞典に掲載されることで有名になった。フランスのデザイナーであるアニエス・トゥルブレ(アニエス・ベー)は小さい頃に辞典を見てこの記号に出会い、魅了されたという。アイロニーサイン(point d’ironie)はトゥルブレが発起人となったアートのフリーペーパーのタイトルになっているほか、現在でも彼女のブランドで多用されている。(https://www.lemonde.fr/m-styles/article/2012/08/31/le-point-d-ironie-d-agnes-b_1753278_4497319.html)
以上見てきたように、アイロニーはたしかに批判性を含んでいる。しかし、すべてのアイロニーが賞賛による批判に還元できるのかというと、ことはそれほど単純ではない。アイロニーの使われ方にはもっと微妙なところがあるからだ。例えばジャスティン・ビーバーのTシャツの「慣例的に知覚される意味」が「私はビーバーのファンです」であったとして、そのアイロニックな使用は「私がビーバーのファンだったらよかったのに=ビーバーが私のファンたり得るものであればよかったのに=ビーバーはとてもファンになるに値するものではない」を即座に意味すると考えてよいのだろうか。そうした意図を持っていた学生もいるかもしれないが、こうした図式を一般化することは難しいように思われる。このTシャツが意味することをあえて言語化するのであれば、「あなたは私がバブルガムポップスターのファンになるような単純な人間と思ったかもしれないが、まさかそんなことはありませんよ」くらいのものではないだろうか。Warrenの研究の中で、プロダクトが従来的な意味と「逆の(opposite)」意味を持つように用いられているという指摘がされていることは興味深い。実際、アイロニーはしばしば「言いたいことと逆のことを言うこと」によって定義されてきた。「なんていい天気なんだろう」がアイロニーとして解釈される時、この文は「良い天気だ」という字義通りの意味を保存しつつ「(例えば)大雨である」という意味を言外にほのめかすことができるし、ここで好天と雨は反対のものと考えて良い()。しかしジャスティン・ビーバーのTシャツの例においては、Tシャツをアイロニーとして用いることはアンチ・ビーバーであることを必ずしも意味せず、単に自分がビーバーのファンではないということをほのめかしているに過ぎないように思われる。アイロニーは言われたことではないものを意味させる文彩であるが、非Aは必ずしもAの逆のもの(opposite)ではないのだ。したがって、我々はWarrenによる定義を修正し、ファッションにおけるアイロニーを「プロダクトを、慣例的に知覚される意味とは別のアイデンティティ、特徴、信念を意味するように用いること」とすることができるように思われる。ここでアイロニーはむしろ、アイデンティティや信念に関する問いに対して単に一つの否定、「~ではない」という答えを提出するための仕掛けとして機能している。「意味されること」はそれ自体として名指されてはいず、それは「言われること」のネガとしてしか現れない。アイロニーはだまし絵のように「隠すことで見せる」形式でありながらマスクのように「見せることで隠す」形式となりうるのだ。
アイロニーとしてファッションを用いることについてもう少し考えてみよう。アイロニストは自らを偽るが、自らを偽ることは自らを装うことでもある。しかし、獅子の皮を被ったロバをアイロニストと呼べるだろうか。アイロニーがアイロニーであるためには、アイロニストは自らを持たざるものとして表彰する必要があるように思われる。ジャスティン・ビーバーにある種軽薄な印象がつきまとうからこそ、ビーバーのTシャツをアイロニーとして着ることが可能なのである。アイロニーという言葉の語源にはεἰρωνεία(eirōneía=「隠すこと、偽りの無知」)があることは先に述べたが、この語の根にはεἰρων(eirōn)があり(この語自体はεἰρω[eirō、言う]からの派生語と言われる)。そして、eirōn(エイローン)という言葉はギリシャ古代劇における信用のならない人物の役柄を意味した。奸計を巡らすこの人物は童話などにおいては狐の形象を用いて表されてきたが、狐が無力な被害者を装うように、アイロニストは自分の真の姿を偽り別のものに自らを装う。モードは移り変わり、その中で装う人は常に別のものへと自らを装い、変化させるという点で、ここからファッションへの距離はそう遠くない。しかしながら、ファッションが全てアイロニー的であるということはできない。アリストテレスは、『弁論術』の中で先に述べたエイローンとアラゾーン(αλαζών、alazōn)という性格を対比し、この二つをよくないものであるとして退けているのだが、エイローンが「持っているものを持っていないと偽る」性格であるのに対し、アラゾーンは「持っていないものを持っていると偽る」性格である。この古代の大哲学者にとっては、目指すべき理想はその中庸、すなわち言と実が一致することであるわけだ。ここで、ヴェブレンのいうようなファッションのトリクルダウンの各項は、アリストテレスのいうアラゾーンと似た性質を持っていることに注意したい。ブルジョワジーは王侯貴族を模倣し、庶民はブルジョワジーを模倣することで、持たざる者である自らを持ちたる者として装う。それとは逆にエイローン=アイロニストは自身を持たざる者として表象するのであって、この人物は装うという点でファッション的であるものの、そのアティテュードは反ファッション的であると言えるわけだ。()。ラグジュアリーブランドを持つことは自らを持ちたるものとして表すことであり、アンチモードの歴史とは一種、そういった秩序に対する侵犯の歴史であった。
一方でデザイナーたちはストリートにインスピレーションを求めた。1970-80年代にヴィヴィアン・ウエストウッドは労働者階級の若者たちとともにパンク・ファッションを生み出し、モードのアンファンテリブルと呼ばれたジャン=ポール・ゴーティエはマリニエールやバイカージャケットなど典型的な労働者の服を取り入れた。マーク・ジェイコブスが1993年に発表したペリー・エリスのコレクションではグランジロックのテイストが取り入れられたが、James Trumanはそれについてこう述べている。「それはモードの反対物だった。グランジとは自分以外の社会に同化することを拒絶することだったのだから、それがモードに入ってくるというのは非常に奇妙なことだった。7番街でグランジの服を買うなんて、馬鹿げている。」そして他方で、1980-1990年代の川久保玲、ジル・サンダー、マルタン・マルジェラらの仕事においては伝統的な装飾的機能から離れたファッションが目指された。日本人デザイナーたちは抑制された色彩を用いて服をヴォリュームと構造に還元し、ミニマリストたちは装飾を削ぎ落としつつ服の本質に迫った(「最初に私が自分自身の線を引こうと思ったのは、モードにおける有用性という意味をなくすことが魅力的に思えたからなのです。三次元の身体のために服を作ることは、それを装飾的なアイディアで覆ってしまうことよりも面白いと思いました。」ジル・サンダー)。そしてマルタン・マルジェラは、服をその構成要素にまで分解することで、従来のラグジュアリーファッションとは全く異なった方法論での服作りを可能にした。
こうしたアンチ・モードの系譜は、自らを既成の秩序外のものとして表すという点でアイロニー的であると言えたわけだが、ゴーティエもマルジェラもエスタブリッシュの極点たるメゾン、エルメスでデザイナーを務めたのであり、モードがそれらアンチ・モードを取り込んで前進してきた点こそが歴史の皮肉であると言いたくなる。()しかしむしろ、アンチテーゼにより絶えず弁証法的に変化していくことこそがモードの本質であるとも言えよう。ジンメルは階級意識の薄れてゆく社会におけるモードの運動の原点には、人が人と同じでありたいと思う欲求、違っていたいと思う欲求があると考え、この引力と斥力による蠕動に流行現象を見た。こうしたものとしてモードを捉えるとき、その成長点においてモードは純粋な自分自身からの斥力として描きだされるように思われる()。本稿冒頭の引用でジャンケレヴィッチはモードが「際限なく他の場所に逃げ込む」ものであると語っていたが、いかにもその突端においてモードは自らを否定することで変化する。そして、いみじくもジャンケレヴィッチが見抜いていたように、これはアイロニー的運動である。なぜなら、アイロニーは何よりもまず自らを否定するものであるからだ。最初のアイロニストであるソクラテスを捉える見方には二つの仕方が存在する。そのうちの一つ、彼を類稀な論争家として捉える見方については先に述べた。こうした見方においては、ソクラテスは自ら真実を知りながら、それを隠すことで論争相手の無知を暴きたてようとしたとみなされる。つまり彼らにとって、ソクラテスがアイロニーを用いたのは、それが論争に勝つための有効な手段だったからだ。そして、二つ目の立場に立つものは、ソクラテスが真実を本当に知らなかったのだと考える。デンマークの哲学者キェルケゴールにとって、ソクラテスは無知を装っていたのではなく本当に知らなかったのであり、相手が知っているということが幻想であるということだけを知っていた。ソクラテスの問答はしばしば解決不可能な状態「アポリア」で終わるが、ここでソクラテスは問答相手を自分が真実を手にしているという幻想から覚めさせることに終始し、それに代わる新たな拠り所を打ち立てることはない。キェルケゴールはこうした態度について次のように書いている。「ある望んだ内容を含むような答えを得るという意図のもと、問いかけを行うことができる。これにより、より多くの問いかけを行うことで、答えはより深く、より意義深いものになるだろう。あるいは、答えを得るという意図から離れて、問いかけにより目に見える内容を吸い出し、後に空虚だけが残るようにするように問いかけを行うこともできる。前者はある内容を前提しており、後者は空虚を前提している。前者は思弁的であり、後者はアイロニー的である。ソクラテスによって特に称揚されていたのは後者のものである。」アンチモードのデザイナーたちは、エスタブリッシュとしてのモードに対して絶えずアンチテーゼを突きつけモードの表現領域を拡大していったのだが、そうすることで彼らは同時にモードとは何かという問いに対する答えをより空虚に近づけていったのだと言える。こうした
()流行の先端において人は、あるいは時代精神の向かう先へ自らを投企するのかもしれないし、あるいは資本主義社会によってその欲望を燃え立たせられるのかもしれない。ここではそうした議論は措くが、いずれにせよモードの成長点に自己否定があることは間違いない。
しかし、このようなものとしてアイロニーを捉える立場に立つとき、アンチモードのデザイナーたちはその究極的な意味でアイロニカルであったとは言えない。あるいはこう言って良ければ、彼らは結果的にモードのアイロニカルな運動に寄与したが、彼らの意図はアイロニカルではなかった。というのも、彼らが服において目指していたのは、従来的な価値の批判を行うことそのものではなく、それとは別の価値を打ち立てることであったように思われるからだ。彼らはラグジュアリーファッションのラグジュアリー性を注意深く排除しながら、同時に階級に関わるもう一つ別のファクターを保存し、その教条を遵奉していたように思われる。その教条とは趣味の良さである。ブルジョワジーが貴族と同様の経済力を得ることは即座に彼らが上の階層と同化することを意味しない。なぜなら階級は経済力のみによっては決まらず、そこには趣味の良さというファクターも存在しているからだ。ファッションにおいても富の誇示とは別のある美的な秩序が前提され、その評価基準に照らし合わせて趣味が良いとされるものが評価される。特に、ストリート上がりのラッパーが長者番付に名を連ね、確固たる社会階層が融解しつつある現代において、この趣味の良さという基準は他者との弁別を図る上でより強化されてきていると言えるかもしれない()。アンチモードはファッションの富に結びつく安易な側面を注意深く排除しながら、同時に趣味の良さという要素は保存し、道徳(黴臭いブルジョワ的価値観からの解放)や倫理(偽りの富の表象の排除)、そして知性(服の本質への還元)といった価値基準に結びつきながら趣味の良さに対する信仰を純化し、その支配を強化してきた。
()富の象徴としてのロゴがブランド価値の低下に繋がっていく顛末については、拙稿()を参照されたい。
しかし、モードがこうしたファッションのシステムを疑問に付してこなかったわけではなかった。イタリアのジャン=ポール・ゴーティエと呼ばれたフランコ・モスキーノの言葉は痛快だ。
「アルマーニが買えるだけのお金がないからって、ルックを真似ようと一所懸命頑張ってフェイクやコピーでそれっぽくしようとする人たちがいる。私はそんなファッションは嫌いだね。なんでそんなことをするんだろう?服なんてファブリックとボタンじゃないか。夢や幸せを買っているわけじゃないんだ。そんなムキにならなくていいよ。」(WWD、1985年)
「ファッションとは本当に悪趣味(tacky)なものだ。ファッショナブルであることはポジティブなことでは全くない。ファッションはもう終わったんだ。もっと他の、意味のあることについて話そう。ファッションは人間を殺してしまう。ファッションはファシズムなんだ。デザイナーとして、私はあなたが変わるように仕向けなければならない - 髪を切ったり、メガネのフレームを変えたりね。あなたはファッションシステムによって作り出された操り人形であって、あなた自身ではないんだ。」(『ニューヨーク・マガジン』、1989年)
1994年のコレクションでモデルが着ていたシャツには「ファッションヴィクティム専用(for fashion victims only)」とプリントされていたが、その袖は拘束着のように結ばれていた。そのメッセージはつまりこうである。ファッションアディクトは新しいファッションを絶えず試すことを強いられ、自由を奪われている犠牲者である。1989年の彼の「ディナー」ジャケットには金のカトラリーが装飾として配され、そのルックには「光るものすべて金ならず(All that glitters is not gold !)」というメッセージが添えられていた。ディナージャケットという典型的な非日常的アイテムにカトラリーという日常的でチープなモチーフを配することで、モスキーノはブルジョワ的価値観の虚飾を表現してみせた。モスキーノにとって、ファッションはメッセージを伝える一つのメディアであった。彼はさらにこう語っている。「ファッションとは楽しくなければならないし、メッセージを伝えるものでなければならない。私は広告のビルボードのように服を用いるのが好きなんだ。」ビルボード(広告掲示板)は目に楽しく、時にウィットに富み、そして伝えるべきメッセージを持っている。モスキーノの服はまさにそのようなものであった。
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(写真上:「ファッションシステムを止めろ!」と書かれたモスキーノの広告と、「ファッションヴィクティム専用」と書かれたシャツ/写真下:「ディナー」ジャケット)
1994年、フランコ・モスキーノはAIDSの合併症により惜しまれつつ世を去る。そして時を経た2013年、このイタリアのメゾンのディレクターにはアメリカ人ジェレミー・スコットが就任することになる。果たしてスコットとモスキーノの相性は抜群であった。創業者の死後精彩を欠いていたメゾンは一躍人々の耳目を集めるようになる。この華々しいブランド再生の顛末について、デザイナー自ら以下のように語っている。「オファーが来るまでこの[モスキーノのディレクターという]立場について考えたこともなかったんだけど、後になって気づいたんだ。それは僕以外の誰にもできなかったか、誰も僕より上手くはできなかっただろうって。」そしてそれは自惚れなどではなかった。フランコ・モスキーノのように、スコットは大量消費社会のヴィジュアルランゲージを用い、ポップでアイキャッチングなルックを作り出す才能に非常に長けていた。新生モスキーノは、大衆はもとよりケイティ・ペリーをはじめとするセレブリティにも愛され、特大のiPhoneケースなどのスマッシュヒットを次々と繰り出した。
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(モスキーノのドレスを着たケイティ・ペリー。ドレスにはマクドナルドのロゴをモチーフにしたロゴが配され、カバンもマクドナルドモチーフかつそれ自体がシャネルのマトラッセのパロディである。)
しかし、スコットの過剰なほどぴかぴか光るビルボードにはそこにあるはずのものがなかった。メッセージである。フランコ・モスキーノが旧態依然のファッション業界の象徴としてけばけばしくパロディしたシャネルのアンサンブルは、スコットの手によって赤と黄のマクドナルドカラーに変えられ、それはシャネルのエレガンスも故モスキーノのウィットも欠いていたが、なぜか下品なほど欲望を掻き立てるウルトラポップなピースと化していた。
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(上:フランコ・モスキーノによる1991年のアンサンブル/下:ジェレミースコットの新生モスキーノによる2014年のアンサンブル)
このようなデザインをを見た批評家たちは、モスキーノというメゾンから大切なものが失われたのではないかと感じた。『レクスプレス』誌は以下のように書く。
「このユーモアは完全に無垢なものではない。というのも、スポンジボブのセーターの裏側には恐ろしい機械が隠れて金勘定をしているからだ。ジェレミーのディレクションによって、モスキーノは1シーズンもしないうちに、創立者のモードのシステムを馬鹿にしつつそれを利用する挑発的な振る舞いから遠く離れ、知的なブランドから、今時の若者たちにとって魅力的以上のもの(ultradésirable)を作り出す旗振り役に変化したのだから。」(『レクスプレス』、2015年)
実際、彼のデザインは消費社会批判というよりその賛美といった印象が強い。彼のデザインにはマクドナルドやスポンジボブ、ハーシーズのチョコレートといったいわゆる「キッチュ」なモチーフが踊るが、そうしたモチーフの使用から創業者のような批判精神を感じ取ることは難しい。スコット自身、ラフ・シモンズがスターリング・ルビーのデザインを扱うように自分はマクドナルドのデザインを使っているだけなのだと語っている。
「あのドキュメンタリー、『ディオールと私』を見てる時、僕はこう思ったんだ。ふむ、確かに世界的に知られたイメージってわけじゃないけど、彼もあるものを剽窃(アプロプリエート)してそれを使ってる、ってね。もっともっと多くの人にとってより身近なイメージを僕が使っているからといって、それは僕のプロセスが深さを欠いているっていうことにはならない。僕のしていることも、ラフ・シモンズと同じくらい大きなパッションを表現するものなんだ。問題はただ、人々がユーモアを欠いているってこと。」(『ニュメロ』、2015年)
即座に成功を収めたスコットの手腕は確かに驚くべきものだ。だが、彼のやり方には金のために手当たり次第モチーフを剽窃しているようなところがある。しかし、ラフ・シモンズがスターリング・ルビーの作品を利用しているのとそれは何かが違うのだろうか。見かけの浅さの裏側に、見えない深みが隠れているのだろうか。
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(スターリング・ルビーのアートワークを用いた、ラフ・シモンズのルック)
我々の考えでは、ジェレミー・スコットのデザインには「深さ」や「メッセージ」で括られるものは存在しない。しかし、それがこのデザイナーを一層面白くしているものである。彼デザインのエートスを理解するために重要だと思われる一つのアネクドートがある。スコットはカンザスの田舎出身であり、いわゆるモードの世界とは隔絶された環境で育った。あるいはモードの世界は彼にとって、一つのチャネルを通してしか入ってこないものであった。それはメディアである。彼は少年時代、テレビや雑誌に写される過剰に誇張されたイメージが実際に現実を写したものであり、自分の小村以外の世界中どこでも人々はテレビや雑誌のように着飾っているものと思っていたという。カンザスの少年にとっては作られたイメージこそがリアルよりもリアルだったのであり、彼はそこから覆いを剥ぎ取った「真実」へ、深みへと遡行する必要を感じることなく、ただイメージに同化したいという欲望を感じていた。彼にとってはイメージがオーセンティック(真正)であることよりも、それがメディアの中で放つ力の方が本質的であったわけだ。
こうしたスコットの姿勢は、彼がインスタグラムなどのソーシャルメディアとの親和性を深く感じているという事実に符合するように思われる。彼はこう語っている。
「僕は自分がソーシャルメディアのために生まれてきたんじゃないかと思うんだが、それは僕がセルフィーが好きだっていうことじゃない。今の時代のソーシャルメディアといえばインスタグラムのことであって、つまりは手のひらサイズの画面なんだ。インパクトがあるのは黒づくめのルックじゃない。大事なのはカラフルで大胆であるっていうことなんだよ。そして僕のデザインはずっとそうだった。時代が僕に追いついてきたみたいに感じるよ。」(『ヴォーグ』、2018年)
SNS上ではルック、あるいはアイテムのイメージが無限に複製され、無数の手のひらサイズの画面に拡散され、ユーザーの目の前にやってくる。ロシアのイコンはキリストの原像(Urbild)を写した像(Bild)でありながら、それぞれのイコンは礼拝の対象としての力を保っている。SNSにおけるイメージは、それとは対蹠的なあり方をしていると言える。無限に複製され拡散されていく中でそれぞれのイメージはかけがえのないものであることや真正であることを諦め、歴史や距離といった深みからの作用ではなく、その表面から身体に及ぼされる作用こそが本質であるように機能するようになった。
マクドナルドとスターリング・ルビーで決定的に異なる点が一つある。それは、マクドナルドのモチーフが無限に複製可能なイメージであり、それに加えてそのイメージはオリジナルというものを持たないのに対し、スターリング・ルビーの作品はアーティストに紐づけられており、そしてそれぞれがかけがえのないものであるという点である。ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、このオーセンティシティ(真性さ)に結びついたひとつきり、一回きりのかけがえのなさとそれに基づく距離の感覚を「アウラ」という言葉で呼び表した(Aura、いわゆるオーラに相当する)。そして彼の「複製技術時代の芸術作品」と題されたテキストの中では、写真をはじめとする複製技術の登場によりこうしたアウラに基づいた価値(礼拝価値)の格下げが起こり、そこから(展示価値)へと重心の移動が起こると論じた。このテキストは今から80年ほど前に書かれたものだが、コミュニケーションにおけるヴァーチュアルの比重が増していく中で、ベンヤミンの言葉はますますアクチュアリティを持って我々に迫る。
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(ヴァルター・ベンヤミンのポートレイト)
ベンヤミンが最も複製技術と密接に関わりを持つものとして挙げてられているのは映画である。映画においては、写される物事そのものがかけがえのない、崇高で、価値のあるものである必要は全くない。では何が映画を価値のあるものにするのか。それはモンタージュ、マテリアルを変形させ、編集し、配置するその方法である。ベンヤミンは「芸術が栄えうる唯一の領域と長いあいだみなされていた<美しい仮象>の国から、芸術はすでに抜け出してしまっている」と書いた。美しい事物、あるいは崇高な精神を再現することは、芸術の唯一最大の目的ではもはやない。アウラの凋落の結果、事物を礼拝対象として扱うのではなく、いわばマテリアルとしてその感覚的効果を重視し、そうした得られた素材を自由に組み合わせて自己を表現することが可能になった。このような広大な可能性の空間、遊戯空間(Spielraum)のなかで、メディアのために素材を再現することではなく、メディアにおいて素材の組み合わせによって自己を表現することが可能になったのだ。
シモンズとルビーのコラボレーションピースは、多くの場合ルビーの作品のアートとしての価値をもっとも引き立たせるキャンバスのように作られる(ジャケットやコートなどのアイテムはその最も「ノーマルな」形が選ばれ、アートワークの背景としてのアイテムが用いられるとき、それらはほとんどの場合単色である)。そしてシモンズが最もクリエイティブであるとき、ルビーのアートワークの力は最も弱まるように思われる。それに対し、ジェレミー・スコットの服はマクドナルドのキャンバスでは全くない(そもそも彼はベジタリアンであるという)。デザイナーはモチーフを変形させ、編集し、配置する。編集者のハサミの下で、アウラを持たない事物たちは皆等しく整列する。現代の解剖台の上ではミシンとシャネルのツイードジャケットとマクドナルドカラーが出会うのだ。その後それらのマテリアルはスコットのヴィジョンに従って組み合わされるのだが、そのヴィジョンが唯一崇めるのは享楽である。スコットはアウラに結びついた趣味の良さという神が牛耳るモードの神殿を極彩色のポップの爆弾で吹き飛ばし、そこにヘードネーを奉じる新たな社を組み立てあげてみせた。
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(上:ラフ・シモンズ2014年秋冬コレクション/中・下:モスキーノ2014年秋冬コレクション)
シモンズのようにモチーフがオーセンティシティを持つわけではないということは、必ずしもスコットのデザインが劣っていることを意味しない。ここでは価値の二方向の運動が起こっている。スポンジボブを用いたアイテムを例にとろう。スポンジボブはオーセンティックなオリジナルが存在しない反復であるという点でそもそもほとんど礼拝価値を持たないと言っていいが、モチーフはそこからさらに解体され、変形される。そうすることでモチーフのモチーフとしての価値はより格下げされるといっていいが、しかし同時にそうした要素の解体および変形は全体のコンポジションの中でより効果的に配置されることを可能にする。ボブのモチーフが用いられたピースにおいて、黒いドットはスポンジの孔だけではなく少なくとも水玉模様あるいはヒョウ柄という二つの伝統的なパターンを思わせるものであり、モチーフとアイテムは図と地あるいはキャンバスとモチーフという緊張関係で結びつけられているのではなく、有機的で不可分な全体を構成している。スポンジボブはある文化的意味内容に結びついた記号であることをやめていないが、あくまで全体を構成する一つの要素としてデザインに統合されているわけだ。そうしたモチーフの変形および全体の再構成についてスコットはこう語る。「僕が興味があるのは、ブルジョワのコードを使って、それらを工事現場で見るような蛍光色やぴかぴかの素材に結びつけることなんだ。重要なのは、リファレンスを不自然さを感じる方向に持っていくということだ。そうすることでこそ、新しいものを作ることができる。あなたが先ほど挙げたもの(マクドナルド、ルーニー・テューンズなど、スコットが使用してきたモチーフ)は単なる図像の集まり(iconographie)にすぎない。それぞれの時代を強力なイメージで彩った、マリリン・モンローやマドンナと同じようなね。」各モチーフはある視覚効果のために選ばれており、それらはそれら自体のオーセンティシティのために選ばれているのではない。そして、こうしたモチーフの解体と再構築は、「ブルジョワジーのコード」が、無限の反復可能性、組み換え可能性を持ったものとして高度に記号化されていることでより効果を発揮する(スポンジボブがスポンジボブであるために必要な要素は黄色と特徴的な顔面だけであり、赤と黄色の組み合わせだけで我々はマクドナルドを連想する)。SNS時代の申し子たるジェレミー・スコットがデザインにこうしたモチーフを選ぶのは十分な理由がある。
ここで、さらにこう問うてみることが可能だろう。我々にこのような分析をせしめたのは、モスキーノというメゾンがハイファッションという領域に位置しているからではないか、と。モスキーノは同時にハイであり(オーセンティックなコレクションブランド)、ローである(ポップ[=ポピュラリティであり、大衆に結びつく]なモチーフ)。その結果、スコットのモスキーノは3つの受容のあり方を生み出すように思われる。あるものはそこに、ポピュラリティとオーセンティシティのハイブリッドを見出す(①)。そして別のものはそこに不協和を見出す(②)。なぜなら、オーセンティシティは技術とオリジナリティ、伝統に結びつくが、スコットのモスキーノはそのうちの伝統しか満たしていないように思われるからである。すなわち、彼のデザインはメゾンのオーセンティシティを不当に利用している。しかし彼のピースは、ある意味ラフ・シモンズとスターリング・ルビーのピースよりも「デザインされて」いる。こうして最後のグループが辿り着くのは、モードというシステムに対する疑問の状態である(③)。インターネットにおけるイメージの流通、SNSでのootdのやり取りがむしろ主となり、物理的な現前性に基づく遠さの感覚、すなわちアウラが過去例のないほど凋落したように思われる現代において、従来のモードが打ち立ててきた価値は未だに有効なのだろうか?モードを支えてきたオーセンティシティに基づく趣味の良さという価値すらもそのイメージに基づく偽物、シミュラクルに置き換わっていく中で、真に価値のあるものは各要素およびそれらの配列によって与えられる享楽だけではないか?
ジェレミー・スコットのアイロニーはここにある。フランコ・モスキーノのデザインはアイロニックであったが、それはいわゆる論争のためのアイロニーであり、デザインはメッセージに従属していた。従って、デザインが伝わることによって服の役目は言わば果たされてしまうわけだ。翻って、スコットのデザインはそれ自体何かへの批判ではない。アンディ・ウォーホルは彼の作品の「裏側には何もない」と語っていた。ジェレミー・スコットも、彼自ら語っているように、自分が適切だと信じるデザインをしているだけなのだろう。しかし、だからこそ彼のデザインには強度とともに批判性が宿る。というのも、従来のモードを支えていたかけがえのなさ、すなわちアウラが凋落したとするなら、ポップカルチャーを通じてより多くの大衆に働きかけることのできるスコットのプラグマティックな方法がむしろ本質を射ているのであり、そうした価値にしがみついているモードのシステムこそが不健全であると言えるからである。こうして、モードというシステムそれ自体の妥当性が間接的に問い直されるわけだ(キェルケゴールのアイロニー)。
こうしたアイロニックな構造は、アイテムの商品としてのあり方にも変化をもたらすように思われる。というのも、それはカスタマーとの間に複層的な関係を持つからである。第一にアイテムは、①の意見を持つ人々からすれば、ポップさとオーセンティックさを併せ持つ優秀な商品である。そして第二に、スコットのデザインはモチーフを単に全体の配置の中の一素材として扱っているのであるから、②の意見を持つ人にとって、ポップカルチャーの「低俗な」デザインによってメゾンの権威を格下げしているという批判は有効性を失う(スポンジボブのデザインは認知可能な限界まで解体されており、安いデザインを盗用した安易なアイテムであるという批判は当たらない)。そして第三に、ポップカルチャーとハイブランドの組み合わせによりアイテムが纏うアイロニー的印象は、商品に前衛的なステータスを付与することになるだろう。一言で言うなら、アイテムは大衆迎合的かつアンチモード的であるということになるわけだ。これによって③の意見を持つ人々を商品の誘引力の圏内に取り込めるかどうかは不確かだが、少なくとも③の意見は②の意見に対するカウンターとして機能する。というよりおそらく、スコットによるモスキーノを見るとき、人は(その濃淡は違えど)①~③の要素を同時に感じ取るのだろう。そうした複層性によって、ある人々は不思議な曖昧さを感じながらもそれに惹きつけられ、またある人は惹かれながらも突き放し、そしてVogueのEugene Rabkinのような人々はそこに複層性、アイロニーの存在を感じ取る、といったことが起こるのだ。
無論、ほとんどのスコットのカスタマーはこのような構造を十全に意識して消費を行なっているわけではない。しかし彼らはスコットの途方もない自由にシンパシーを感じてもいる。ベンヤミンはこう語っている。「芸術作品の前で沈潜するひとは、そのなかに自己を沈潜させる。・・・これに対して散漫な大衆は、逆に自己の内部に芸術作品を沈潜させる。」このドイツの思想家は、機械複製技術が本格的に大衆化したことの中に、アウラを失ったマテリアルの自由な組み合わせが形成する遊戯空間(Spielraum)の発生を見た。そこから80年が経ち、インターネット及びSNSが普及した結果、その空間が既に少なくない大衆の中に大規模に内面化されていることを、ジェレミー・スコットの成功は教えているだろう。しかしその成功は同時に、ブランドのステータスおよびそれに基づくオーセンティシティ、すなわちそのアウラが無ければ機能しないようなアイテムの複層性に基づいたものでもあった。言い換えれば、ジェレミー・スコットのデザインは、モードというシステムの機能不全に対する批判性を含みつつ、そこに依存したものであるのだ。こうしてシステム自体が当のシステムに対するアイロニーを可能にしたとするなら、それもまた一つのアイロニーであると言わねばならないだろう。
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